人魚幻想海女随想
                        3版(02,01、03)

人魚と海女、このイメージはずっと私の心を刺激し、創作意欲をかきたててきた。
なぜだろうか、と今さらに思う。
2つは海に棲む女だということで共通点はある。
水の女ということにすれば、あのフーケの童話、ジロドオの舞台劇で知られる「オンディーヌ」水の精
(浅利慶太演出の舞台で主演した加賀まりこの網タイツを思い出す)が加わる。

オンディーヌ フラウド作

                                                       河出書房新社 イメージの冒険4 「少女」より


「人魚姫」とオンディーヌ」はよく似た筋を持っている。多分、古来同じ伝承だったのだろう。

                                                       


同じ親を持つ姉妹が別れて海と、泉に棲み分かれたのに違いない。

 「水の女」とはなにやら妖しげな響きを持つ言葉だ。
濡れる女、水浴の女、泳ぐ女、溺れる女。女の濡れた肌身、あらわな手足、胸、
濡れそぼった髪、ひたむきに動く肉体、喘ぐ胸、荒い気息、
やはりエロチックなイメージがある。
それも静かな、受身のものではなく、
運動系の活発な女のイメージが連想される。
水辺に立つ--水際を背にして立つ--女、水から出現する女が裸でないことは稀であるし、
でなければ不自然だろう。
少なくも水着などのわずかな布片で女の性徴(と乳房)を覆っていなければ、
多くは水の妖精(ニンフ、エルフ、オンディーヌなど、更には綺麗な脚を得た人魚)であるに違いない。

 または海女だろうか。

海女もまた妖精じみて見えることがある。真珠を求め、腰綱を曳いて深い海の底へ、
懸命に息詰めして潜っていく裸の女たち。
ロマンチックでありながら、死の危険とも隣り合わせのハイテンションな世界。

一方で人魚は多く海の難所に棲んで船乗り達を惑わしてきた。
神話に現れるセイレーンたちは、美しく高い歌声で男たちを魅惑するけれど、
その姿はむしろグロテスクなものだった。
彼女たちが若く、美しい人間の女として描かれるようになったのは
近世になってからで、以来物語に頻出するようになった。
もちろん日本文学に現れた数少ない人魚の代表作である

谷崎潤一郎 人魚の嘆き 挿絵                                    文藝春秋 現代日本文学館16


谷崎潤一郎の「人魚の嘆き」は後者である。
しかし、人魚がいくら若い美女であり、見事な乳房と蠱惑的な細腰を持っていても、
肝心の腰から下が、脚線が魚の胴体だったら、
気味悪さが先に立って、やはりセクシーだ、エロチックだなどとは言えない(と思う)。
谷崎がかの小説をただ、怪奇読み物として拵えたのではなく、
人魚という架空の生き物のイメージに魅惑されて書き上げたのは、
やはり彼が根っからの文学者だったからだろう(初期の谷崎特有の、絢爛たる文飾をきわめて、
ながながしい、人魚の描写のしつこいこと)。観念のあそびにひたれる
高邁な気質を持っていたからだろう。
 私などはどうしても、人魚を只の人間の美女として描いてしまう。俗流の悲しさだろう。
私の短編「人魚の小屋掛け」は、室生犀星の晩年の小説をリメイクしたものだけれど、
やはりこの傾向(誘惑)を避けられなかった。
通俗文学が完璧な美女しか書かない(書けない)のに対し、純文学者は概して美女にこだわらない。
むしろ醜い女、不具の人間、愚かな,平凡な人間達を描いて倦まない。
そういった情熱が存在するとは、私などには想像もできないことだ。
ここでは文学論をぶつつもりはないから、ここでやめる。

アンデルセンの「人魚姫」は、彼の手になる多くのヒロインの物語に共通して、
嗜虐的な趣味が多分に現れている。
舌を抜かれたり、毒を飲んで声を出なくしたり、
はだしで踊る間もあしうらが意味もなく剣山で刺され続けるような苦痛に耐えたり、
辛い恋をじっと耐えて恋仇のそばで道化をしたり、ヒロインはこれでもか、これでもか、と痛めつけられる。
最後には自分の死か、裏切られた男を殺すことで
生き延びるか、二者択一を迫られ、当然ながら男を殺すのが自然な道だろうけれど、
ヒロインはマゾそのもの(作者がサディスチックにヒロインを痛めつけるということでもある)
で、結局夜の海に飛び込んで自殺してしまう。
私はこれに惹かれて(換骨奪胎)ひとつの物語を作った(「クノッソスの人魚」
ヒロインの人魚は私の下手な筆ではうまく実在感を出せないので、海女に置き換えた)
けれど、余り成功したとは思えない。

 そういえば、小説を書き始めた頃、SFの文明崩壊近未来もので、海へ避難した人間
(の生き残り)が人魚に進化して漁船を襲うといった短編を書いた。
これを思い出したのは「ウォーレスの人魚」岩井俊二角川書店という小説を見つけたからだった。

「ウォーレスの人魚」表紙
                                                                 岩井俊二 角川書店


                                                       
「ウォーレス--」はSFとファンタジーの中間のような、余り現実味のない物語だったし、
ここで紹介するタイプの作品ではないけれど、
人魚を題材にした稀な日本の小説ということではここに出してもいいのかもしれない。

 「人魚姫」も「オンディーヌ」も人間ではないもの(妖精、この世ならぬ美しいいきもの)
が人間に恋をして破れる話である。
それぞれに人間の夢を、男の身勝手さを、理想の一面を語っているように思う。
 人魚姫は人魚であることの限界を感じ、
王子との恋を成就することなく海の泡となってしまう。
オンディーヌもまた、騎士との恋に敗れたけれど、まだ自分の主張を貫き通し、
裏切られた夫の命を断った。
 私個人としてはぞっとしない結末だけれど、
冷静に眺めれば、それはむしろ現代に通じる(納得できる)
合理精神があるようにも思うのだけれど、
どうだろうか。

 人魚と海女をはっきり結びつけた作家が宮谷一彦のコミック「人魚伝説」(わがサイト「危険な美女はお好き?」参照)。
志摩の海女の村で、近くに発電所の建設計画がもちあがり、
その漁業補償のもつれから巨悪(の手先)に夫を謀殺された若妻、美しく腕の良い海女が、
その怨みが嵩じてその悪に挑み、次々と計画的ともいえない
殺人を犯していく。大量殺人の興奮で精神に異常をきたし、海へ出たまま行方不明になる。
その美しさのゆえにか、またはその物語の異様さから、
海女は伝説となってひとの心に棲みつくということか。
私はこれにも惹かれ、筋を貰ってひとつの物語( 人魚伝説 サイト公開済み)を作った。

御宿の海女
                                                            実業之日本社刊
                                                        ブルーガイドブックス112


舞台は外房総の海女地帯にした。ここで有名なのは御宿岩和田の海女だろう。
他の地方の職業海女が厚着になって潜る間も、
ここの海女は絣の磯襦袢にショートパンツ姿を守っていた(S56頃)けれど、
そんなきっぷが買われてか人気が出て、観光客の
カメラにも収まるし、夜の宴席にも侍るようになったという事を聞き、熱が冷めた。
現在はどうだろう。当地の観光ポスターにも
最近まで御宿の海女は出ていたけれど、雰囲気からして中央のモデル嬢に違いないと思う。
元来、岩和田の海女は大柄で、美人が多いという説はあった。
江戸時代にここへ漂着したメキシコ人船乗り(事実らしい)の血が残っているというのだけれど、
にわかには信じられないよね。

 現在、僅かに残った幾つかの地方拠点の海女たちは、皆例外なく黒いスーツで全身を包んで作業をする。

中村由信写真集
                                                        マリン企画 表紙


若い海女がいなくなったとも。何か、味気無い。「海女」という函入り限定版の
美麗な写真集(マリン企画S53刊)撮影中村由信 があって、ここには良き時代の
海女の風俗が残されている。
対馬曲や舳倉島などではS40頃まで乳房も尻も
あらわにして、現在のひも水着のようなものをつけただけで作業していたのが
これで分かり、驚くのだけれど、それはおそらく海女発祥の頃から変わらず
続けられたものだったろう。
江戸中葉の浮世絵には腰巻き姿の海女が
描かれている。志摩の(海女としては最もポピュラーな)海女などはこの系統だろう。
細い紐をすだれのように腰に垂らして、ハワイのフラダンスのような姿で泳ぐ絵も残っている。
いずれも上半身は裸である。

私が子供の頃(S30頃)舞台に大きな水槽を置いて、その中で本物の海女を泳がせて見せる
ショウがやってきて、親に連れて行ってもらった記憶がある。私の町は小さな地方都市(人口10万)
だったし、それまでに全国を回ってきたのだろう。ショウの海女は白い上下をつけていた。
海女は古来、日本と韓国(済州島)にしかいないといわれる。海人(男あま)が世界では主流らしい。

それなら、もっと日本は海女(とその伝統的な習俗)を大事にして保存する必要がありはしないか(動態保存)。

 小説などの芸術に現れる人魚の多さにくらべても、
海女が描かれた例を、私は不勉強にして知らない。
安房鴨川在住の作家近藤啓太郎の初期の作品にはあるらしいが、まだみつけてはいない。
ずっと気になりながら本格的に捜す事をしなかったのが正直なところだけれど、
たまたま必要があって読み始めた翻訳本に格好の例をみつけた。

 無実の罪でフランス本国から遠く南米の悪魔島と呼ばれる流刑の島にある監獄へ送られ、

アンリ・シャリエール
                                                                     タイムライフ社刊
                                                                     パピヨン(上)表紙


辛酸の限りを舐めつつ九度の脱獄を図り、終に自由の身を勝ち取った執念の男が自身で書いた
凄まじい実話「パピヨン」(上)(下)タイムライフブックス刊。その上巻に現れる愛の挿話、
カリブ海の美しい海女、著者アンリが、第三回目だかの脱走時に迷い込んだラ・グヮジラの半島にある
海岸地方、ベネズエラとコロンビアの国境地帯に位置して、その領土紛争のはざかいにありながら、
いわゆるインディオの土地として奇妙な無風状態を保っているあたりだったが、そこで彼が出会い、
一時期心身で虜になった、真珠を採る現地民の娘、ラリ(華やかで、はかなげな、いい名前だ)。

 覚束なく迷い込んできたどこの馬の骨とも知れぬ風来坊、
脱獄囚人であるアンリを温かく迎え入れ、やがて強く愛してしまう若い十六、七だかの
娘は、村でも並ぶもののない腕の良い海女で、鮫の影も恐れず、
二十メートル近い水深の海を三時間も休まず潜り続けて沢山の真珠貝を水揚げする働き者だった。
 彼女の姿は温かい視線でこのように細かく描かれている

”女は中肉中背、薄茶色の目をし、横顔は清純、二つに分けた髪は長く、殆ど腰にまで届いた。
胸乳はまったく見事に発達していて、高く、梨型に盛り上がっていた---”

初対面から女は彼を夫として期待し、村人も同様に認めていたことであり、彼女の仕事の
時間以外は大抵一諸にいることになったのだが、しかもお互いに親しく愛撫を交わす頃になると、
するりと男の腕の間を抜けてじらすばかり。
 若い彼を更に困惑させることには、女が普段から前を隠す小さな布を細い紐で
しなやかな腰に括りとめている他は、何も身につけぬ裸の姿で、
尻もまったく剥き出しということだ。もっとも、それはこの未開インディオの村の普通の習俗であり、
女が殊更に新入りの若者にたいしてなすことではなかったわけで、
アンリ自身すぐ彼等と同じような衣服(半裸)に改めることになるのだけれど(たいそう彼女に笑われた)
やはり、慣れない文明人の日常としては刺激的なことだったろう。
 この作品の文学的価値は、あのモーリヤックも保証したように、
世間から高い評価を与えられたけれど、それは、
この海女と作者との抑えた愛のドラマの、どこでもいい、ほんの一部分を抜き出して味わうだけでも、
充分頷けるものだ。たとえば、じらし続けたラリが、初めて作者に身体を許す場面はこのようである。
---あまり詳しくは立ち入らないが、それは本能に身を焼いて、まるで蔦のようにわたしに絡みつく、
赤熱の恋の女であった---と、これだけ。

 私はS・マックィーン主演の映画「パピヨン」をずっと以前TV放映で見た記憶があるけれど、
このインディオの海女の現れる場面を記憶していない(あるらしいことは解説書で確認済みだが)。
自前のビデオコレクションには欠落しているし、どういうわけか、どのレンタル店でも全く見かけない。
(私は近郷十以上のレンタルショップの会員証を持っている)著作権のこじれから、
引き揚げられたのだろうか。どうしても見たいわけではない。もっとも、これを奇貨として、
私が出会った最高の、イメージとしての美しい海女を長く心に保っておこうかとも思う。

 

 

                                                    この項  終わり

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