ミシュレの魔女

西洋中世暗黒時代の象徴である「魔女」に関しては現在まで無数の書物が出ている。私もこの女性(だけでもないが)が悲惨な運命に翻弄された時代現象に興味をもってかなりの書物を渉猟したが、思えばその内容はどれもさほど変わらないものだった。つまり、14世紀頃からはじまり、18世紀になるまで続いたヨーロッパにおける「魔女追求、告発、裁判、迫害、処刑」という当時の特殊な社会現象にまとをあてて、その現実を語ったものがほとんどだった。

「魔女」を反キリスト教の由々しい悪の象徴として体制側が問題視し、社会にひそむそれらの反社会的因子をあぶりだして捕らえ、自白と密告を強い、次々に極刑に処断して“撲滅”していった、それは現在の目からは信じられないほどの愚劣な社会事象だった。凄まじいばかりの人間疎外があり、現在では当時の愚かしい人間たちのいわば集団ヒステリー的現象だった(つまり、殆どの場合、取り締まるべき「魔女」という実物は存在しなかった)と見られている。
現在もそういった公的権力のヒステリックな地ならし的追及と空気を反省的に「魔女狩り、魔女裁判」に喩えられることがよくある。それはそれで歴史の失敗事例として貢献しているということなのだろう。


フランス18世紀末に生まれた歴史家ジュール・ミシュレの隠れた著作として一部に知られていた「魔女」は、書かれた当時は著者の名声と確固たる社会的地位にもかかわらず、発表することができなかったといういわくつきの作品である。それは当時なお社会に力をふるっていた保守的な教会勢力のゆえだろう。その後社会は様々な変遷をたどったけれど、この書が一般に知られるようになったのは、ようやく第二次大戦後になってからである。
この書が(書かれた当初に遭った「禁書」とはちょっと違う意味で)長く公刊されなかった理由のひとつは、このフランスの大歴史家の著作とするには具合の悪い、まともに取り上げることの出来ない、猟奇的な内容を含む小説的な部分が問題にされたのだろうといわれる。もちろん、大ミシュレ自身が躊躇したわけではない。周辺のミシュレ崇拝者たちがそう仕向けたのだ。彼の名声が汚れるとでも思ったのだろうが、そんな不自然な作為が良かったはずはない。第二次大戦後、この書の完全版が公刊され、誰でも読むことが出来るようになったのは、社会の進歩、人間の精神の自由の向上がそうさせたのだろう。もちろんそれでミシュレの名声が堕ちたという話は聞かない。

この上下2巻に分かれた相当の大部な著書(岩波文庫 篠田浩一郎訳 1983年 刊)は、上巻に前段で述べたいわゆる小説的な「魔女の誕生」とでもいうべき中世のリアルな猟奇的物語があり(私がこの著書に興味を持ったのは、日本の虫プロ最後の長編アニメ「哀しみのベラ・ドンナ」の原作としてこの本が取り上げられたからだけれど、このアニメーションはまさにその部分を映像化したものだった。)下巻にはそれを補足するように、当時実際に起こったいくつかの「魔女事件」の詳細が年代を追って語られている。全体として歴史書の形を取っているのは、彼がフランス史を書く途中で、その膨大な資料を駆使して書かれた、その副産物のようなものだったのかと思われる。この前には「オルレアンの少女=ジャンヌ・ダルク伝」も書かれているのである。しかし、これは単なる歴史書ではない。また多くの著作が光をあてている「愚劣な魔女裁判の実態」という面については殆ど書かれて居ない。そういったことがあったということは何度もさらりと触れているけれど、余り興味はないというような書き方である。

この書の優れたところ、というより現在までにつながる独創性はそれ以外のところにあるのだろうと思う。


私がこの書を読んだ限りでは、この「魔女もの」は当時から特異な書だっただろうということだ。「魔女」はフランス古代からの原始的な、呪術的な風習に端を発し、新興宗教の時代を過ぎて形骸化し、堕落した末に民衆へのしかかってきたキリスト教(と一体化したどうしようもない地方権力)に対抗するものとして民衆、特に当時からひどい人間性の疎外に苦しめられていた女性の間に根深く残っていた、すぐれた自然観、知識から形作られたものだったとミシュレは書いている。たとえば、魔女崇拝の絶対者「サタン」とは、一般で言われるキリストという天上の善神に対置する悪としての存在ではなく、もっとニュウトラルな、自然神(satan=悪魔、サタンではなく、saturn=農業神、サターン?)とでもいうべきものだったのだろうと。

魔女は闇黒の中世といわれた当時の風土から、生まれるべくして生まれた、と著者は言う。そして、その確信的な「魔女」の立場から見た体制側の悪と愚劣さを徹底的に抉り出す。
「哀しみのベラ・ドンナ」

上巻で描かれる不幸な女のヒロインチックな描き方は、著者のたっぷりした思い入れがこもっているようだ。
当時の一般女性から見れば、キリスト教そのものがすでに善ではなく、地方の権力と結びついた世俗宗教に成り下がっていたわけで、それらを陰で茶化し、ひそかに息抜きをする場としての祭りが、いわゆる悪魔集会「サバト」として民衆のなかでひそかに行われたのだろうという。肝心なことは、それらの行動と精神には人間本来の自由があり、更に魔女の事跡には医学と科学の萌芽があったということだ。
体制側が黒魔術とか妖術と名づけ、そして卑猥で不道徳な混乱だと罵ったそれらの夜会は、ミシュレにはまったく逆さまに見えていたのだ。
 

 閑話休題。先に書いた例の虫プロ最後のアニメ「哀しみのベラ・ドンナ」で描かれる美女ヒロインの運命は、なるほどミシュレが空想で描いたものだろう。もちろん、多くのそれに近い運命を辿った実際の女性たちがいたことは確かだと思う。何にせよ、これはミシュレの時代に描かれたダークな妖精物語として読めるし、だから、私が期待したリアリズム(合理性)は、悪魔に次第に侵されていく女にはなかったのも当然だった。けれど、彼女が暗い牢獄と悲惨な拷問の予感に慄きつつも魔女集会の主役をけなげに演じきったあと、黒馬に導かれ何処かへ去っていくエピローグは実に爽やかなものだった。
やっぱり、読んでよかった、という気分になったものだ。
魅力的な一編のヒロインをむごたらしくも火刑にして”盛り上げて”しまったかのアニメーションと偉大な歴史家の精神の差がここに顕著だったということだろう。

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