「マヤ・パピヨン」


(9)脱走・1

 

  真耶がB監房に入ってから一ケ月がたった。
「日光浴」の一件以来カルメンとはうまくいって、彼女らにひどい目に
遭うことはなくなった。一足飛びに牢内での彼女の序列は上がり、
カルメンの次ということになったようだった。あの日からしばらくして
真耶に新しい「制服」が渡され、他の女たちと変わらない姿になった。
カルメンは真耶の綺麗な乳房が見られなくなったと残念そうだった。
もっとも、大抵の夜は皆がそうしているように、真耶も着衣を取って
カルメンに抱かれるままになるのだったが。

  日光浴は穏当な時間になって、一週間ごとに
出来るようになった。何よりも、生きながら朽ちていくような暗い
あなぐらに寝たきりの毎日から、監房から出て多少は身体を使う
機会が出来たことで、牢内は活気も出たようだった。あのとき
真耶を襲った看守たちは、顔を見なくなった。男の囚人達の
獄舎に移されたのだということだった。水浴はなお許されなかったが、
一連の動きに所長の影が感じられるようだと真耶は思った。
まだ彼は自分を思い切れないのだろうか。それは悪いことでは
ないとも思えた。何か、利用できるかもしれないのだ。

 

  真耶たちの監房に新しい使役が課せられることに
なった。カルメンによれば、ちょいちょいあることだという。
監獄全体の水をまかなっているポンプの汲みあげ作業だった。
親しくなった看守の一人がそっと教えてくれたところでは、
女囚の監房とは別棟になっている男囚の収容棟でストライキが
起こり、それでポンプを回すものがいなくなって水不足になって
いるのだという。シャワーを浴びることも出来ない自分たちが
どうして、と真耶たちは大いに不満だったが、小銃を構える
看守たちの要求は、常に絶対命令だった。日中の暑さを避けて
暗くなった頃、看守たちが監房のまえに現れる。五名ずつ四組に
分けられたひと組が後ろ手に括られて牢を出され、管理棟でも
ある女囚の収容棟を出、中庭を経て男囚の棟に近い、十年以上
前に嵐で壊れた、かつては巨大な風車が廻っていた塔のような
ポンプ棟を見上げながら、正面に開いたくぐり戸を開け、その中に
入る。深い縦穴のあやうい足場を地下に降りて、朝近くまで
ひたすら井戸の汲み上げ水車につながる「ろくろ」を回すの
だった。日が落ちてからの移動ではあっても、ずっと出ることの
なかった女囚の監房を出て、自分たちの収容されている建て屋を
外から見ることは新鮮な体験だったし,中庭を通り抜けるときに、
つかのまであってもこの収容所全体のあらましの姿も見られて
想像も出来、真耶はそれらに目を奪われて強制労働の予感から
くる不安も忘れた。真耶が夜昼なく思っている脱走のための
大きな一歩が向こうから寄って来たような気がした。

  作業は、ひとかかえほどもある中央の軸木から、
放射状に出た多数の横棒を、五人の女でひたすら押し回すという
ものだった。男なら三、四人で軽々と回すのだろう。真耶の組は
躯も小柄で、弱っている女もいて、中では体力もある真耶に負担が
かかった。そうでなくても、場所によってはくるぶしまでくる水びたしの
地下室の暗い中で首縄を繋がれている「ろくろ」の横木に取りついた
まま、立ち続けのままの十二時間は辛いものだった。
夜も更けてくると空気は寒いほどだったが、息の抜けない力仕事は
真耶たちを汗みずくにさせた。排泄なども動きながらやり終えねば
ならなかったけれど、薄暗い石油ランプの灯りがひとつ、縦穴の
壁まわりに組まれた足場の上から全体を照らしているだけで、
周囲に居て目を光らせている看守たちの無関心の中でなにげなく
済ますことも出来た。この短く、股間もあらわな貫頭衣の少ない
利点のひとつだったろうか。

  それで、辛い作業が終わった束の間の休息のときに、
真耶は看守の目を盗んで素早く衣服をぬぎ、足元の水に布を
ひたして汗だらけの肌を拭った。自分たちの垂れ流す小便なども
混じった、決してきれいな水ではなかったけれど、その冷たさが
真耶を悦ばせた。看守たちはそれを黙認し、ひそかに目で
楽しんでいるようでもあった。真耶は、真剣に、彼等を篭絡して
脱走の手助けをさせられないものか、と考えた。

 

  この監獄が地理上のどこにあって、周囲が
どんな環境になっているのか、真耶はまったく知らなかったし、
知る手立てはなかった。今度の使役の際の、収容所内の移動で
分かったことは、この監獄が島か、それとも海に迫った非常に
狭い馬の鞍の様な土地の上に築かれており、その一方の
古城の中に真耶たちが収容されているということだった。
そして所長をはじめとした管理棟も、これに同居していた。
その棟と対立する形で、その数倍の大きさの男の囚人たちのいる、
やはり煉瓦の古めかしい建物がそびえており、それらに挟まれた
中庭に、監視台を兼ねたポンプ棟があった。彼女たちが建物から
中庭に出た時に左右に見えるのは、高い煉瓦塀だけだったが、
その塀に穿たれた幾つかの穴から、海の景色が見えたことが
あった。ここは島なのだろうか。

 

  ここから脱出に成功した囚人が過去にいたのか
どうかも分からないし、どんな準備が必要なのかは、殆どこの
監獄の警備状況と立地条件に係わってくることであり、まず
それらの知識を手にいれなければならなかった。カルメンに
相談することは出来ないと思ったが、当面それらの知識の
断片を身近かで知っていそうな人間は彼女くらいのものだった。
彼女は並みの看守たちよりも古く、多分所長の次に長くここに
いるのだ。

  カルメンは真耶の気持ちを見透かしていた。

「駄目だね、脱走なんてここでは無理だ。三方が鮫の多い海で、
背後はインディオも棲まない深い密林と湿地帯だ。」

「じゃあ、ここは島ではなかったのね。」

何となく安堵したような真耶の声にカルメンはそれがどうしたの、
と突き放した。

「孤島と何も変わらないよ。おまえは分かっていない。

「以前男囚が三人、その森に逃げ込んで行方不明になった。
捜索隊が入ったが、一週間後に一人だけ、やつれ果てて戻ってきた
ところを捕まった。」

「あとの2人はどうなったの。うまく逃げおおせたの?」

「残った男によれば、飢えて、狂い死んだそうだ。密林なんて、
至るところにバナナとか果物なんかが実っていて、さほど食べ物に
事欠かない場所って思いがちだけれど、そんな甘いところじゃ
ないんだね。彼等の死体はここから余り遠くない場所で見つかったが、
野獣やら、いやらしい虫どもに食い尽くされて殆ど白骨化していたって。
道に迷って逃げ切れなかったということもあっただろうが、要は、
ここの密林が、どだい人間の入り込める場所じゃないということなんだ。

「こんな歴史の古い監獄があれば、大抵は近くに刑期明けの
元囚人やら、監獄に入った亭主を待つ女やらの住む村が自然と
出来るものだが、そんなものまったくないし、ともかく原住民が
あたりに棲んでいない。この百キロ四方が全く無人だというし、
海岸沿いにもインディオの村ひとつないらしいから、脱出のための
舟を貸してくれる者を見つけることが難しいのよ。」

「舟が手にはいれば脱出は可能だということね。」

「例え舟が手に入ったとしても、どこにつける?」

あとで、カルメンは監房の奥、下水穴に近い北側の壁で
煉瓦組みのゆるくなっている場所に真耶を連れていき、その
煉瓦のひとつを慎重に内側へ抜いて見せた。頭ひとつが辛うじて
入る大きさの穴の向こうから強い陽光と熱気が流れ込んで来たが、
そこから見える光景は息を呑むほどのものだった。

  見渡す限りの青海原だった。遠く左側にかすむ
海岸線が海の向こうまで続いていた。かなり突出した岬
なのだろう。ここを島と真耶が勘違いしたのも無理はない。
頭を穴に突っ込んで真下を覗く。ぞっとするような断崖が眼下
にあり、わずかな岩場が白い波を噛んでいた。

「わかったろう。こんな岩場に舟を近づける漁師はいない。
少しでも大きな波が来たら、あっというまに舟は岩に打ち付け
られて壊れてしまうからね。このあたりの海は深くて簡単に
船着き場を作ることが出来なかったようだ。もっとも、ずっと
陸よりに適当な海岸があって、昔はそこから上陸していたらしい。
今でもそこに舟があるはずはないけどね。

「この穴は看守どもも気づいてはいないが、もっと大きく
しなければひと一人が通り抜けることも難しい。でも、この
監房の外に出たところで、それだけのことだ。そこから海に
飛び込む度胸を持った人間はそういないだろうが、はっきり
言って、そいつは即死するだろう。岩に頭をぶっつけなくても、
大変な高さだし、水面そのものが岩みたいに硬くなって首の骨を
折って死ぬんだ。岩壁を伝って下まで降りるって?ここからじゃ
猿でも無理だね。ともかく舟がなくては鮫の餌食になるだけだ。
監獄の管理者どもは残飯やら囚人の死体をつねに近くの海に
ばらまき、投げ捨てて、鮫の群れをあたりにひきつけていると
聞いた。泳いで逃げ出すわけにはいかないね。」

 

  男の囚人たちのストライキはなかなか解決しない
ようだった。真耶たちの使役も終わることなく、苛酷な労働に
耐えかねて弱っていた女たちが次々に寝付き、チームが
何度となく再編成され、比較的元気な真耶たちの負担は
より重くなっていった。それでも監獄の水の溜め置きは
どんどん減っていることが看守たちの焦りようから分かるの
だった。真耶たちの労働時間も次第に長くなって、外が明るく
なり、縦穴の上から明るい光が射すようになってもしばらくは
ろくろにつけられていることがあたりまえになった。皆の疲労は
尋常ではなく、終わったあとはその場に座り込んでしばらく
動くことも出来なかった。水を呑ませて、と看守に泣きついて
いた女が上へ上がる際に足を踏み滑らせて落ちた。相当の
高さで、女はもう身動きもしなかった。真耶はしんがりでもあったし、
再び降りていって女を抱え上げた。ドゥラだった。このごろは
かなり元気を取り戻していたのだが、無理をしたのだろう。
頭から血が出て、もう息がなかった。真耶は心臓の音を確かめて
馬乗りになり人口呼吸をはじめた。口から息を吹き込みもした。
しかしやがて心臓の音もかすかになり止まってしまった。看守が、
あとで処分する、と冷たくいうのを無視し、真耶と他の女囚とで
ドゥラは明るい地上に引き上げられた。死体が看守たちによって
持ち去られていくまでの間、真耶たちは彼女を中にして座り、
泣いた。

 

  真耶は焦っていた。看守たちの大部分が男子の
収容棟に釘付けになっている今、全体として警備が手薄に
なっているだろうことは確かだった。今を逃したら脱走の機会は
こないかもしれない。しかし、どうすればいいのか。B監房の
主のようなカルメンでもここからの脱走は不可能だという。
ただ彼等の眼を盗んでこの監獄の敷地から逃げ出すのは
それほど難ごとではなさそうだった。あとのことはその後に
考えてもいい。以前と違って牢の外に出る機会は多かったし、
例の使役の時は収容棟から出ることにもなる。最初は後ろ手に
いちいち括られていたのが、それもなくなった。一番自由を
感じる、そのときに逃げ出すことは可能だろう。

  もっとも、最初からどこへ逃げるかを考えて
おかなかったら、逃げ切れる確実な道が確保できなかったら、
たとえ最初の一、二分で目撃された看守に背後から撃たれて
死ぬことを逃れたとしても、結局は捕まってしまう。ぞっとする
ような懲罰が脱走犯には待っているのだ。まず彼女たちが
往復する中庭の左右を囲っている二メートルの高い煉瓦塀を
乗り越えることが初めの仕事だった。それまでにポンプ室の
塔の上に陣取っている看守の小銃から狙われなければ、多分
真耶は煉瓦塀を越えて海に面する断崖に身を置くことになるだろう。
そこがどんな場所なのか、真耶はいつか、狭い範囲ではあった
けれどカルメンから監房の小さな窓を通して眺めたことがあって、
彼女が説明するほどには恐怖も、絶望も感じたわけではなかった。
逃亡者に困難な道なら、当然追跡も困難だろう。波打ち際を
陸の方へ進めば、森は近いはずだ。密林へ入ってしまえば
彼等も追跡は出来まい。百キロあろうが、二百キロだろうが
陸続きならいつかは人間の住む場所にたどりつけるだろう。
これまで、余りに私は悪人との出会いが多すぎた。いつまでも
運が逆目に出るわけはないだろうし、いずれ、うまくいくことも
あるだろう。

 

  「淫売の巣」とカルメンが呼ぶ隣りの監房から
三名の移動があった。向こうに補充があって手狭になったのか、
客の指名がずっとなく、邪魔者扱いされてきたのか分からなかったが、
B監房としては厳しい使役の頻度が少しは緩和されるわけで、
仲間が増えるのは悪いことではなかった。もちろん真耶が味わった
ように、向こうとのひどい待遇の格差が彼女たちを絶望的にさせて
いることは確かだった。中に同じヘリコプターに乗ったミーナがいた。
生気のなかったミーナの顔が真耶を見つけたことで生き返ったように
なった。二人はしっかりと抱きあった。ミーナは真耶が思ったほど
やつれてはいないこと、朗らかなことを言って驚いていた。
真耶はカルメンにミーナを紹介して辛く当らないようにといった。
カルメンは昨夜の使役で参っていて、適当にあいずちを打った
だけだった。その日の夜は真耶の番だ。

 

  使役がはじまってから、真耶は何度となく看守達に
誘われた。躯を触られたり、抱きすくめられたりの他にも、使役を
軽減してやるからと身を任すことを要求されることすら一度や二度では
なかった。もちろん真耶は冷たく無視するばかりだったが、そのために
作業中に鞭をうたれたり、他の女たちよりも辛い目にあうことが度々で
あり、真耶と常にグループで一緒の女は、さほど同情もしなかったが、
”自分があんたの立場だったら遠慮なくその恩恵に浴していただけじゃ
ない、もっと積極的にやつらに働きかけて楽をしていただろう”
とあきれ顔にいうのだった。真耶は、余り安っぽく見られたくないのよ、
大事なときのために値段を吊り上げている最中なのよ、と冗談まじりに
言ったが、彼女がその言外の意味を理解したかどうかは分からなかった。

  その夕刻、いつもより多目の食餌を腹に詰め込んだ
真耶は、迎えにきた看守の一人を見て狙いを絞った。彼は確か、
日射病でふらふらになった私を犯した男たちのひとりだ。
色目を使うと簡単にやってきた。

「前より豪華な衣裳になったじゃないか。」

「中身も充実しているのよ。」

「そいつは結構だぜ。どこで抱かせてくれるんだ。」

「ポンプ室の中よ。へばらない内に、早目に寄ってよ。」

「そいつは無理だぜ。役目がちがう。」

「工夫してよ。途中外に出られたらいいんだけど。」

今夜がひとつのチャンスだと真耶は思った。仲間に元気な新しい
女がいる。ミーナと一緒に来たシルバ、赤毛の混血女で若くはないが
美人でもある。しばらく真耶がろくろから離れても何とか保たせられる
だろう。

驚いたことに、真耶たちがロクロに繋がれてなにほども
経たないうちに、そのシルバが監視役の男に首縄を解かれ、
暗闇に消えていった。その看守は真耶が一度袖にした男だったし、
真耶に対する面あてかもしれない。重くなった横棒を押し続けながら、
今ここにあの男が来てもどうしようもない、と思った。ろくろが
止まったら、すぐ別の部屋の監視役、つまりは井戸監視人ともいうべき
人間にここの異常が知られ、余計な看守が確認のためにやってくるのだ。
何発かの鞭の味はなんとか我慢できるにせよ、そんな事態は、
今夜だけは避けねばならなかった。一時間余り気分的にも辛い
時間を真耶に過ごさせたあと、ようやくシルバが裾の汚れを
気にしながら再びろくろについた。

  真耶が後ろに男の気配を感じたのはそのすぐあとだった。
約束した看守だ。いつ入ってきたのか。後ろを振り向いて、それが
あの男でなく、いつも二人いるこのポンプ室の看守の別の一人で
あることを知る。相棒のよろしくやるのを見てたまらず、自分も
試してみたくなったのだろう。真耶は一度ならずこの男を拒否
している。しかし今夜は渡りに船だった。首縄の掛けがねを後ろで
外し、抵抗をしない真耶を抱いてろくろを離れた。真耶はなされる
ままに隅の暗がりに連れ込まれ、強く抱きすくめられてすぐ最初の
攻撃を受け入れた。床がどこも水びたしなので行為はすべて
立位でなされねばならなかった。真耶はこの後に予定している
行動に支障がないように、余り体力を浪費しないように押さえて
いたが、カルメンの愛撫などとはまた異なった感覚は悪いものでは
なかった。男は性急にことをすすめて、簡単にひとまず真耶の中に
ぶちまけた。真耶も息を喘がせていたのが男に満足と好感を
与えたのだろう。真耶が看守の後戯の手を軽く押さえ、
ちょっと待って、と離れていったのも、軽くもない性行為の直後
だというのによろめきもせず、しっかりした身のこなしで縦穴を
上へ昇る足場に取りついたのにさほどの関心も、疑いも彼に
抱かせなかった。小用だろうか?ここではできないのか?
セックスとはまた違うのだろう。

当然ながら、消耗が男の本来の任務への気力を削いでいた。
それから一時間近くも男は待たされ、ようやくある疑念が兆したころ、
その足場から彼女ではない、看守の一人が降りてくるに及んで
更に男は混乱した。看守は真耶たちを今夜ここまで連れてきた
ひとりだった。しきりにろくろを回し続ける女たちを物色している風だ。
見張りはどんな言葉を彼に投げつけてやろうかと迷った。
男は図々しくも、逆に近付いた見張りに問いかけた。

「もう一人、いたはずなんだが。」

知らん!と言おうとして、女の不可解な行動が理解できたように
思った。女は今夜は二またを掛けていたのだ。

「おまえに会いに行ったのか。上がっていった。上で待っている
のではないのか。」

間抜けな看守は、泡を食って、降りてきた足場を急いで上がっていった。


文頭へ戻る

(10)失敗・1 へ進む 

「マヤ・パピヨン」目次へ戻る

メニュウページへ戻る