マヤ・パピヨン

(28)邂逅、再びの危機


 二人は長くも抱きあわなかった。ジョージは真耶の体が強く抱き合うことに耐えられないほどにひどく傷つき、その苦痛に耐えていることをすぐ知ったからだった。誰からともなく離れ、そして向き合って見詰め合った。男の無言、そして自分を眺める目とその表情に、真耶も改めて自分のひどい状況を認識していった。
もっとも、二人の認識の間にはずいぶん開きがあったはずだ。真耶がこの邂逅によって社会へ生きて戻れるだろうという安心感は共通のものだったけれど、真耶自身としては、自分が今なお死に瀕して苦しんでいるという認識はなかった。ジョージの表情の深刻さにはむしろ真耶の方が驚く番だった。
「いえ、何日か寝込んだけど、もう大丈夫。立って歩けるのよ。今日にでもここを発てる。傷もさほどではないの。まだ疼くけれど--。」
「いや、無理をしてはだめだ。安静にしていなければならないよ。ヘリを呼ぼう。すぐにでも入院して治療しなければ、手遅れになるかもしれない。いや、そのひどい傷だ。破傷風がこわい。」
お互いに聞きたいこと、話したいことは山のようにあったけれど、その欲求はこの出会いの奇跡の衝撃でしばらくは忘れられていた。真耶も無口なまま時間が過ぎた。ずっと二人の様子を陰で見守っていたのだろう。やがて彼の後ろに白いゆったりした僧服を来た白人が立った。ジョージの同伴者だった。

「こんなに早く貴女が見つかるとは思いませんでした。ミリオ神父です。この部落は私が三年前から通って教化している村なのですが、ここも含めて、オリノコのデルタに点在するインディオたちの部落の殆どを警察の提供したヘリで聞き回ったのです。何の手がかりもなくて、その時点では絶望だと思った。でも、この、貴女のフィアンセーが私のいるツカピタまで来て、どうしても密林へ入ってみたいと。当面の目標をこのシュラカマエの部落に決めた。私自身はよく通う道ではあるけれど、ジョージはよく歩いた。たった四日で来たのは私も初めてだ。かなり参りましたよ。でも、貴女はその何倍も苦労されたのでしょう。五十マイルもの人跡未踏の湿林や危険な密林をどうやって越えてこまで来られたのか。奇跡としかいいようがない。ああ、ひどい傷だ。すぐにでも手当をしないと手遅れになるかもしれない。さっそくヘリの手配をしなければ。」
真耶の逃亡を押さえたいという、悪魔岬の監獄側から近辺の警察への内々の協力の要請がマスコミに漏れたのは、常識では考えられなかった悪魔岬の監獄からの脱獄という、珍しい事実でもあったからだ。東洋系の受刑女囚の冒険が幸運にもそんな地元の小さいニュースソースになったけれど、それは単なるローカルな囲み記事だった。それが、たまたまジョージが国内でキャンペーンを張っていた真耶の失踪の情報と結びつき、センセーショナルな大ニュースになったのだ。警察と監獄側との陰微な結びつき、常習化した管理売春。これに関連した証言者も現れた。幸運だった。

「監獄のやつらは、ツカピタの警察を買収して君を捕らえようとしたことで、かえって君が脱走したことを世間に知らせてしまったんだ。へどが出そうな犯罪だった。まだ皆は半信半疑のようだけれど、これは売春だけではない、警察の組織も巻き込んだ大がかりな麻薬密輸の摘発につながるかもしれないということで、国際的な問題に広がろうとしている。真耶、君はすごいことをしたんだよ。」

  真耶は、この部落の自分に対する扱いの豹変を半ばは理解したように思った。墓穴の底で聞いたヘリの音は神父たちのものだったのだ。あのヘリがもたらした情報が私を救ったのに違いない。でも、同じ彼等に射られたことをどう考えればいいのか。

「ねえ、神父さま。貴方がたのヘリが一週間前にここに寄ったことは確かなのですね。ではその二日前にもここに寄りましたか?同じヘリコプターで。」

神父は首を振った。いや、ここに来たのは一度だけだ。真耶はこの部落の人間に一度は殺されそうになったことを皆には言わなかった。この大きな彼等の変化は何だろうか。カンジェロに食いつかれて苦しんでいた時に上を飛んだヘリ、あれが神父たちと関係ないとすれば、それがこの謎を明かしてくれるかもしれない。真耶は笑顔を繕った。

「ここの村のひとたちには大変お世話になったわ。お礼をいってください。」

いつのまにか入って後ろで静かに皆を見守っていた小柄な族長が、馴染みらしいミリオ神父に何かを言われて、嬉しそうな、しかし多少照れたような表情をした。

  遠くからヘリコプターの音が近付いてきたのはそんな時だった。神父とジョージは顔を見合わせて怪訝な表情をした。

「どこのヘリだろう。捜索の者は、今は飛んではいないはずだが。」

しかし、もし利用出来るのなら真耶を町へ載せていくことを頼んでもいいのだが。そう言う意味の話を聞かされた族長は複雑な顔をした。神父に強い調子で何かを言って、すぐ小屋を出ていった。神父はジョージの問いかけになお不審な、考える様子で言った。

「『それは無理だ。貴方がたはここを出るな、決して出るな。』って。」

  ヘリは畑の向こうに着陸したようだった。真耶には分かった。自分たちが勝利をおさめようとしているこのとき、その動きを封じ込めたいと考えているやつらも、まだあきらめてはいないのだ。まず、私が邪魔になるだろうことは確かだった。私は殺されるかもしれない。現に、殺されようとした。
本来、人間を射たりはしないインディオだ。その優しい彼等に私を魔もののように言い、殺すことを示唆したのはやつらなのだ。それが今、またやってきたのだ。自分たちの間違いを清算しなければならないと思い詰めたような族長の表情だった。真耶は不安だったが、ジョージたちにそんな憶測を言う気にもなれず、そのままぼんやりした振りでいた。ずっと爆音は止まらなかった。長い。何か、変わったことが起ころうとしているのだろうか。真耶の胸騒ぎが高まった時、爆音に混じって銃の音がした。皆は顔を見合わせるばかりだ。ジョージも、もちろん神父も武器は持っていない。四日間の密林行に山刀ひとつ持ってこなかったのはたいした勇気のように思えるけれど、通い慣れた道なのだろう。今は不安を通り越して青ざめている。一番落ち着いているように見えたのは真耶だったかもしれない。しかし、このままでは済まないだろうという、一種の立場のなさに焦っていたのは彼女自身だった。そのときだった。入口に何者かの気配があった。
真耶は、隠れるべきだろうか、と思った。しかし、どこへ?。ジョージたちにそんなことを説明するのもはばかれた。自分だけが逃げることはできない。自分が逃げれば、ジョージたちは殺されるかもしれないのだ。真耶は開き直るしかなかった。
入ってきたのは初めて見る村の男だった。真耶たち三人に何事か叫んだ。怒声のようでもなかったが、切迫感があった。もちろん真耶には意味が分からなかった。ジョージとともに神父の顔を見る。神父はしばらく無言のままだった。再び問うた真耶に口ごもりながら、何か変だ、と一人ごちた。族長が呼んでいる、女に早くきてくれといっている、と言うんだが。
真耶は考えていた。これは族長の意思だろうか。外で何が起ころうとしているのか。三人は黙りこくっていた。男は再び同じ言葉を発した。真耶は心が動いた。恐怖はあったけれど、それ以上に、行かなければならないだろうという義務感がきざしていた。すぐ入口の簾がめくられ、更にインディオの男が入ってきた。一人、二人、真耶には初めての男だったがこの村の者だ。族長と同じような体つきで、しかし槍を持っていた。神父が何事か彼らにたしなめた。ここへ入ってはならない、というような意味だったろう。その言葉がきいたのか、二人の男は入り口に立ったままで、出て行こうとはしなかったが、それ以上奥へは来ず、かなり緊張しているようだった。真耶を指し、来いというような身振りをする。無視をし続けることも出来なくはない、ためらいの混じった表情だった。槍で脅す様子もない。しかし真耶はちょっと考えてから起き上がり、ベッドを降りた。一週間前に穴から引き上げられた時のままの、腰に二重に紐を回しただけの汚れた裸体だった。インディオの女よりもひどい姿だ。

「マヤ、行かないほうがいい。ここにいるんだ。」

何ごとかを悟ったジョージが必死で止めようとするのを擦り抜けて男に腕を託した。

「心配しないで、何も起こらないわ。」

それだけ言うとすぐ真耶はきりと前へ向きなおり、インディオの男に促されるまま、もう歩みに躊躇はなく、小屋を出た。三人の男は十日ぶりに太陽の下に出た病人を意識するのか、ゆっくりと介助するように歩き出した。しかし左右から真耶の二の腕を強く掴んで、逃げ出すのを警戒している様子もある。真耶は、しかし小屋を出たことで何かがふっきれたような解放感を味わっていた。こうして半ば強制的に連れ出されなくても、いずれ自分から出ただろう。実際、じっとしているのが彼女にはたまらなく辛かったのだった。族長が自分を必要としているのは間違いないとも思った。少しはびっこをひいているようだったが、案外すんなりと立って歩けることが嬉しかった。
部落の外れ、かなり向こうにヘリがまだ回転翼を回して待機している。その前で数人ずつの男同士が対面(対決?)している。裸のインディオの前に立った大柄な迷彩服の二人。真耶にとっても、夢にまで見た恐怖の男たち。恐らく真耶が予想していた光景だった。そこへ近付くことが自分にとってどんな結果を招くことになるのか。このひと月の努力がついえてしまうだけでない、生命すらあやうい状況にわが身を置くということだった。しかしもう真耶は恐れなかった。自分を呼んだこの男たちが部落の意思を代表しているのなら、私は行かねばならない。再び銃声がした。脅しだろうが、敵の一人が持っている銃がついいましがた二度目の火を吹いたのだ。左右の男は一瞬身を震わせて立ちすくんだ。犠牲者はまだないようだ。ヘリを背にしている悪の男たちの前で、臆する風もなく立っている族長たち。しかし、真耶を連れ出した男二人はそれ以上前には進めないようだった。真耶は左右の手を振りほどき、へりの方へ引きつけられるように一人で進んでいった。行けば撃たれるかもしれないと思ったが、恐怖はなかった。むしろ、自分に代わって撃たれようとしているように見える小柄な男たちのためにも出ていく義務を感じていた。

 

  迷彩服の視線が真耶をとらえた。それにつられて、族長と、もうひとりのインディオも後ろを振り返った。信じられないものを見たように瞠目して、声もあげられない様子だった。この女は、気でも狂ったのか。真耶は確信した。族長は自分を連れ出した男たちとは無関係だった。しかし、彼らが危機に瀕していることは確かだった。真耶にも見覚えのある看守、迷彩服の方はさすがに彼女を知っていた。いや、買いかぶりかもしれないが。

「やあ、村の女かと思ったら、マヤじゃないか。もう逃げられないと観念して出てきたのか。あいかわらずの度胸だな。思いきりがいい女だ。」

「ここのひとを傷つけないで。私はもう逃げない。」

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