マヤ・パピヨン

(26)カンジェロ


真耶の危機が去ったわけではなかった。ひどい傷の痛みと発熱で体力も気力も尽きはじめていたし、山刀もマッチもほのかな安心感を与えただけで、実質役に立つことは当面なかった。続く日々は激しい雨で、火を起こすことが出来なかったのだ。地図にしても、自分の居るこの密林がオリノコ川のデルタに属していることが分かっただけで、おおまかな自分の居場所すら見当もつかなかった(彼等は書き込みを殆どしていなかったし、GTSという小さな携帯電話のような電子機器の使い方が分かっていれば、それも解決したはずだったが。)。
ただ、地図には彼女が出奔した海岸の監獄の位置は朱書されていて、それを中心とするこのあたり百キロの範囲には道路も、小さな町すらないことがはっきりしただけだった(自分はこの十日間に、どの方角へ、どれだけ進んだのだろうか。南へ向かったと思うが、自信はない)。南だとしても、とても五十キロも進んではいまい。見渡す限りの緑の地獄、沼続きの湿地帯では何の目標も立てようがなかったし、死んだ彼等ももう教えてはくれない。最も近いらしい真耶の目指すべき場所は、西へ、ほとんど百キロの距離にあるツカピタという州の首府(小さな町だろうか)か多少南西の、それとほぼ同じ距離にあるコポリトだったが、そこへたどりつくまでに越えねばならない地図上の大きな川だけでも五本以上あった。それに、そのちっぽけな町に例え彼女がたどりつくことに成功したとしても、彼等が合法的にその町の警官を使って真耶を拘束するだろう可能性は少なくない。
すでに手配はなされているかもしれないのだ(それは事実だった)。そこへ行き着くまでの無人境で真耶が更に出食わすだろうありとあらゆる危険、そしてその間に彼女が果たして生き延びるだけの食餌が得られるだろうかという基本的なことを思えば、結局、彼女が確実に生きることを願うならば、脱走した監獄へ再び戻って命ごいをするのが最善の策だ、ということを地図は示しているようだった。三人の追っ手を殺している真耶が(殺したことに後悔はなかったけれど)残りの刑期だけで許される筈もなく、もちろん脱走の処罰は熾烈を極めるだろうし、それこそ一生そこを出られなくなるだろう。彼女にそんな選択は出来ない。雨季が始まったのか、毎日豪雨が降り、真耶の絶望は深まった。

 

  雨を避け、傷ついた体を休めるために、真耶はにわか作りの葦の小屋を作ってそこに留まり、気分のいい時には三人が死んでいる場所に戻って目ぼしいものを探った。薬品を得て、傷口を出来るだけ手当した。二丁の銃と銃弾を多少得た。食糧は期待に反して見つからなかった。真耶は三人の男だった物体が様々な生き物たちに食い散らされ、凄まじい変化を見せて行くのを毎日冷ややかに観察した。彼等が戻らないことを懸念して再度の捜索が始まっているかもしれなかったし、余りゆっくりはしておれなかったけれど、骨だけになったら三人を埋めておきたいとも思っていた。もちろんライフルなども沼に沈めるのだ。ヘリコプターがまた上を飛んだ。あたりに降りる場所はないと思っても、気分のいいものではなかった。音を聞かれるのが恐く、銃は使わないままに捨ててしまった。

  彼等が運んで来たというゴムボートがどこかにあるはずだったけれど、見つけるための行動は億劫だったし、敵が迫っているかもしれないと思い、探しに戻る気にはならなかった。他の様々な「遺留品」は骨と一緒に埋めてしまった。地図も、磁石も一緒だった。何とか体力も戻りはじめ、大きな傷口もひどくならない間にうすかわが張り始めたのを確かめて、真耶は小屋を捨て、また進み始めた。
監獄に入って以来、六ケ月近くにも及ぶ、長い裸のままの生活で、久しぶりに穿いたパンツは、排泄などにむしろ不便にも感じた。追っ手との遭遇を証明することにもなると思って脱ぎ捨て、再び全裸になり、ただ山刀だけを持っての出発だった。またピュウマか、ジャガーか、他の危険な野獣や鰐などに襲われないとも限らなかったし、今度襲われたら治りかけた傷も開き、もう駄目だろうとも思ったからだ。もっとも、そんな危機はこれまでの経験から殆どないはずだったし、短剣とも余り変わらない大きさのその武器が、大型の猛獣の攻撃に対抗できるほど有効かどうかは真耶にも心許無かった。いつもは腰に二重に巻いたナイロンの綱に挿しているその武器は、日に何度となく出食わす沼や川を泳ぐ時には背中に回したり、口にくわえることにもなるのだけれど、重くもあり、追っ手に見つけられた場合のことを考えて、捨てようかと思ったことも再三だった。

 

  しかし、それが真耶の命を辛うじて救うことになった。樹上から落ちてきた巨大なボアが真耶にかぶさり巻き締め、あまつさえ左肩に噛みついた。恐怖と、痺れるような苦痛は彼女に悲鳴を搾り出させずにはおかなかった。しかし素手で鰐の攻撃から逃れた真耶の自信がよみがえった。もちろん、山刀がなかったら、真耶はたとえ肩から相手の頭を振りほどいて、あとの牙と顎の攻撃を避けたとしても、彼女の首や胸、腹などを幾重にも巻き締めた相手の万力のような力の持続に耐え切れず、結局疲労の末の窒息死を免れなかっただろう。真耶は左肩の肉を噛ませたまま自由な右手で腰の刀を抜き、敵の力の源だというしっぽに近い胴を叩き切り、次いで苦痛に耐え、転げ回って相手の絞窄力を弱めつつ、噛みついている頭などを突きまくったのだ。死闘は一時間近く続き、結局三メートル近い大蛇は真耶の執念の結果として息絶えたのだった。もちろん血の海の中に倒れこんだまましばらくはただ、荒い息を継ぐだけが精一杯だった真耶自身の憔悴もひどく、噛みつぶされた左の肩は一生腕を動かすことが出来なくなるのではとも思わせた。
真耶はそこでも一日高熱に苦しみ、数日間動けないまま蛇の肉を食い、傷を癒した。傷だらけの彼女を駆り立てたのは、生きたいという執念だった。

 

  至るところに見られる毒蛇や大とかげなどの危険ないきものを恐れていては暗い猛烈な茂みを裸で這うように進む(立って進むより障害は少なかった)ことは出来ない。真耶は躯に深い傷が増え、体力が落ちてくるのを意識するにつれ、彼女を狙う大型の肉食獣が増えてくるのにも気が付いた。それは傷口から臭う血に引かれて襲ってくると言われる河の猛獣ピラニアにしても同じだったろう。大きな鰐を山刀で撃退したことはあったが、川の真ん中でピラニアの群れに襲われたら、いかに泳ぎ上手な真耶でもどうしようもない。彼等は、元気な獣は襲わないが、老いた獣や傷口の開いたいきものは逃さないとも言う。あちこちに血をにじませ、左手が自由にならない今の真耶には、大きな川を泳ぎ渡ることは大変な勇気が必要だった。沼地は大抵迂回したし、余り大きな川は時間を掛けても山刀で木を切り、筏を作って渡ることもあった。その間に腰の紐を解き、傷の血膿をつけて水に垂らし、噛みついてくるピラニアをうまく釣り上げて食餌にした。この企みは久しぶりに満腹したほどの成功だった。

 

  数日前からつけねらわれていた大山猫に襲われ、間一髪で逃れて川へ飛び込んだ真耶はその直後、股間を激しい痛みに襲われた。幸いたいした川ではなかった。痛みをばねにしてきりきり舞いながらも泳ぎ抜き、何とか対岸にたどり着き、暗い草むらの中を転がりまわって苦痛に耐えた。気を失うまでに真耶はパニックを押さえ、出来るだけのことをした。真耶は自身の膣口へ手首まで差し込み、子宮を食い破られるまでに何とかそれを掴み、引きだした。小水の臭いを慕って胎内へ潜り込んでくる、カンジェロと呼ばれる小さな肉食のなまずだった。膀胱の穴か、肛門へ潜り込まれたらどうしようもなく狂い死ぬばかりだったろう。そのときばかりは真耶も捨てたパンツに未練が沸いた。

  出血がひどく、しばらく立ち上がれなかったけれど、そのまま眠り込むことは出来なかった。水辺であり、長く寝ておられる場所ではなかった。鰐に見つかって引き込まれるか、水の好きな蛇に襲われるか。ともかく、体が動かなかった。気を失うまい、少し気力が戻れば立ち上がるのだ、と意識し続けた。その時、急に頭上をヘリコプターが飛んだ。すぐ近くから飛び上がったように感じられた。真耶は痛みを忘れて森の奥を透かし見た。何者かの気配がする。今度こそこちらが先に見つけてやる。しかし、意気込みばかりが先に立って、真耶は立ち上がることが出来なかった。暗闇を這い進みながら、あることに気が付いて腰をまさぐる。さっきのパニックで真耶の唯一の持ち物である山刀は失われていた。川の中に落としたのか、それとも豹に襲われた時に取り落としたものか。真耶はそれを余り残念には思わなかった。自分の逃避行はどうやら終わりに近付いているようだという、漠とした予感が兆したのだ。もう山刀はいらない。運命に身を任す時期がきたのだ。真耶の躯の芯はまだ苦痛が脈打っていたし、しっかり立つことも出来ない状況で計らずも弱気になったのか。危機の連続を何とか生き抜いて精根尽き果てようとしているのか。真耶の逃避行は既に二十日を越えていた。

  しばらく這い進むと森が途切れ、叢林の点在する開けた草原になった。明らかに人間の手が入った一帯だ。森を焼いて荒っぽい開墾がなされているようだった。芋畑がある。人間の気配はその向こう、草ぶきの小屋が点在するあたりだ。煙があがっている。インディオの部落だった。ではヘリコプターはここに来て、去っていったのだ。何のために?。私を捕らえるための手配だったのだろうか。多分そうだ。彼等が残った可能性はないだろうか。何にせよすぐ入っていくのは危険だった。裸の蛮族がやはり裸の私にどんな印象を持つかはともかく、文明人に知恵をつけられて私を待ち構えていることは充分考えられる。すぐ殺されることはないだろうが、安全を期すなら、この部落は避けて通り過ぎるべきだろう。

  しかし、二十日間を(獣めく追っ手とは遭遇したが)まともな人間の影もない地獄のような自然をさまよい続けた真耶には、例えそこが石器時代そのままの原始人の社会であるにせよ、更にそこに自分を罠に掛けるべき敵が待っている可能性があるにせよ、どうしようもなくそれへと引きつけられていく力を押さえ切れなかった。人恋しさとでもいうのだろうか。二十日もの間、惨めなけだもののような生き方を強いられた真耶には当然の感情だったろう。彼等の部族の中には、接触しようとするよそものを排斥し、殺して食う凶暴なものもいるという。しかし、それは全く例外であり、殆どがむしろ温和な、素朴で思いやりもある人間たちの集団だとも聞いていた。真耶も、人間とは誰であれこちらから信じて近付いていけば、必ず応えてくれるものだという信仰のようなものを持っていたけれど、傷つき、飢え疲れた自分のひどい状況にもかかわらず、単純に飛び込んで救いを求めていくことの出来ない逃亡者としての自分の現状を耐え難い、悲しいものにも思った。

  夜が更けてから、真耶は空腹を癒すために、明るいうちに目を付けていた彼等のマンジョーカ畑に忍び寄って芋を抜き、土を払ってかじった。何本も抜いて食べた。満足したあと、近くの叢林にもぐりこんで身をこごめ眠った。ざわざわといやらしい毒虫がたかってくるどんな場所でも平気で眠ることができるようになった真耶だった。人間の住む村に近いこの自然は、もちろん大蛇やオンサーなども出没しているはずだったけれど、これまでの湿林や大密林のただ中の殺伐とした荒々しさに比べれば、人の手が入った二次林ということもあり、そこはかとない安心感を得ることが出来た。もっとも、それは真耶の錯覚だったのかもしれないのだが。

  夜明けとともに目覚めた真耶は部落を油断なく眺め、変わったことがないか観察した。遠目にも小柄な男たちが数人、弓矢を持っていずこかへ出ていく。彼等は大変な弓の名手だとどこかで聞いたことがある。真耶は、油断がならないと思った。矢に毒などが塗られてあれば、かすっただけでも生死の境をさまようことになるともいう。別の男が長い棒を持ってこちらに向かってきた。真耶は緊張した。まだ距離はある。それに棒は武器ではないらしい。男は芋畑に入った。真耶が昨夜抜いて食べた場所で長い間立ち止まっていた。何か、気付かれたかもしれない。やがて何本か堀上げ、男は小屋へ戻っていった。真耶は深い森に退き、川辺へ戻った。真耶はもう歩けるようになっているけれど、昨日この川に飛び込んだ獣ではなかった。川を裸で泳ぐことの無謀さと、自分の気力の限界を知った多少憶病な人間の女になっていた。しかし、そんな危険な川への一種の意趣返しの意味から、以前成功したピラニヤ釣りをやってみようと思ったのだ。川に面する緑の壁へ、水草の繁茂する中へもぐっていく。暗い水面が見えた。もちろん何が居るか分からない危険な場所だ。山刀を落としたことで単なるアクセサリーに過ぎなくなっていた腰の綱を解く。これは三人の追っ手と接触した唯一の証拠として残ったものだ。彼女の身に残された最後の人間めく装飾物でもあった。その端を痛みをこらえて自身の陰部に挿し込み、血の臭いをつけて川へ投げる。すぐ強い引きがあって、手のひら大の怪魚があっけなくあがってくる。真耶は噛みつかれないようにしながら押さえ、その場で白身をむしって食べた。

  真耶のひそむ茂みの向こうの明るい川面をカヌーがゆっくり通り過ぎた。真耶は身を地面にひたりと伏せてやり過ごした。カヌーには朝早く弓矢を持って小屋を出たインディオの一人だろうか、褐色の膚をさらした男が乗り、矢をつがえてしきりに川面を見詰めていた。彼等は弓で魚を射るのだ。それが見えたのは一瞬だった。真耶の姿は深ぶかとした密林の植生の奥に隠されて、お互いにわずかな角度の幅でしか見えない上に、川の方からこちらを見ると暗い洞窟の奥を覗くように真っ暗なはずだった。見つかるはずはない。真耶は少し興奮しながらそう思った。

  三尾をたいらげ、渇きを癒した真耶は、昨夜のいがらっぽい生芋のくちなおしをして川面を離れた。また紐は腰に回し、結んだ。原始の森と人間の世界との境目のような場所が川を包む茂みと村の間にあるようだった。もっとも、なにげなく進む限りでは、多少森の密度が薄くなるように感じられるだけだ。更に進むと裸地がところどころに現れ、叢林が残る場所になる。そこまで這い進み、立ち上がった真耶の耳に矢なりが聞こえた。横からだった。気配を感じた左の方向へ顔を向けたことでわずかに半身をひねった、その真耶の右の乳房を矢が貫いた。衝撃で気が遠くなりそうなのを耐え、意識を励ましつつ真耶はその場に脚を折って座り込んだ。二の矢が腰に刺さった。それにはかまわず、真耶は乳房の矢を両手で支えつつあおのけに倒れ込み、矢柄を折った。次に矢尻の方へ一気に抜く。その際の激痛で真耶の意識は失われた。

 

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