マヤ・パピヨン

(24)追われる身

  真耶の予感は不幸にも的中した。やはり敵は諦めてはいなかったのだ!。これまでの日々の苦労を思うほどたいした距離を進んではいなかったのだろうか。十日間の彼女の必死の密林との格闘も、全く無駄になる瀬戸際に立たされることになった。
次の朝、大木のうろの中で目覚めた真耶は、すぐ近くで人間の気配を感じた。犬の啼き声がした。二頭はいる。真耶は危険を直感した。身体を這う2,3の毒虫を払い、うろから飛び出した真耶は激しい犬の悲鳴のような吠え声を後ろに聞きつつ、必死で走った。凄まじい茂みに飛び込み、泳ぐようにもがいて抜けると暗い水面が前に広がった。真耶は躊躇なく思いきり岸の倒木を蹴って頭から水へ飛び込んだ。

  この十日間、日に何度となく真耶は水に対面し、その都度慎重に前後を見、水面やにごった水のぞっとしない中を見つめ、危険がひそまないかどうかを確かめ、もちろん迂回できればそのようにした。しかし、多くの場合、入ることを余儀なくされた。泳ぐのは嫌いではなかったが、なにものがひそんでいるか分からない沼に全身を沈めていくのは真耶にもいい気分ではなかったし、不気味な泥沼を這い進む時は緊張も窮まった。大きなアナコンダが水中を動いていくのを見てからは恐怖も倍加した。動きがとれないときにやつらに襲われたら致命的だった。次第に慣れが恐怖を薄め、歩くのと変わらないような気分になった時、鰐に襲われた。それからは再び恐怖が戻り、慎重にもなった。もちろんその後も進退窮まる時にはやむなく水には入るが、出来るだけ避けて迂回するようになった。しかし、大きな河は迂回することが出来なかったし、鰐の気配を避けつつ強運を恃んで泳ぐことになった。ヘリの捜索にみつかったのもそんな時だったのだ。

 

  そして、いまはそんな危険を恐れている余裕はなかった。沼というよりもこのあたりを網目状に流れている川の一部のようだった。日がささず、暗渠のような暗い淀み。水中がまったく見えず、一番ぞっとしない場所だ。しかし、水に入ったことで臭いの痕跡が途切れ、当面犬をまくことが出来るかもしれない。川幅は樹冠が覆うほどの狭いものだったが、真耶は最短距離であがらず、しばらく潜り、かなり離れた場所から、腹を、胸を泥に擦らせてへびのように身を低くし、這い上がった。もちろん真っ暗なほど繁茂した水草の繁る中へもぐりこむことになる。水辺は大抵このような様相を呈している。最初のうちはどんな危険な敵が待ち構えているか、毒蛇はいないか、と不安に震えたものだった。確かに危険は少なくない。蛇や極彩色の蛙、猛毒のやつと対面したり、掴もうとしたこともある。しかし、この朝から真耶が恐れなければならないものには毒蛇やアナコンダのような自然の敵だけではなく、元いた監獄から派遣された死の追跡者どもが加わった。執念深く、強力で悪知恵もある最も危険な敵、人間ども。

  真耶はいろんな意味でもう人間ではなく、既に自然に生きる一尾のけものになっていた。方角を誤らないようにして密林を更に進む。容易に歩いて進めるほどの場所はほとんどない。重装備の対ゲリラ隊員が重い山刀で前に塞がる茂みを左右に切り開きつつじりじり進まねばならないような暗い稠密な叢林を、身をくねらせ、もぐりこみ、泳ぐようにして半ば這い進む、蛇のように、白い尾のないとかげのように。肩から乳房を覆うほどの髪は、以前はよく草や枝にまつわりついたけれど、今は泥やら樹液で半ば固まっていた。剥き出しの肌身にたかり、噛みつく毒虫や蛭も、赤や青の蟻の群れも何事でもない。巨大な毛グモが顔に飛びかかってきても、冷静にはらいのける。今は後ろから迫る追っ手だけが恐怖だった。しかも、一度発見された上は、更に執拗な追跡が続くものと覚悟しなければならないだろう。真耶の心にある悔恨のようなものが浮かんだ。どうして彼等の先手が打てなかったのか。あれだけ敵に近付かせるまでに、こちらの方で気付いて逃げられなかったのか。また、犬には気付かれたけれど、人間たちには見られていないのではないか、とも思ってみた。逃げたあのいきものは鹿だったのかもしれない、と。いや、やはり見られているだろう。昨日のヘリとの関連も思ってみた。彼等はヘリに乗ってやってきたのだろうか。ともかく終わったことは仕方がない。今後の対策に絞ろう。さて、やつらの犬の追跡能力を失わせるにはどうすればいいのか。川を経たことは、臭いを辿るかぎり、そこで一応の足取りが途切れたことになるはずだ。それに、全身濡れそぼった今の自分の躯からは臭いが薄れているはずだった。いつもは無造作に滴らす排泄もしばらくは我慢する。機会があるたびに水をくぐろう。泥を塗ったり、強い香りがする樹液を躯に塗ることもいいかもしれない。しかし今は出来るだけ早くあたりから遠ざかるだけだ。今日は何も食べまい

  これほど懸命に進んだのは初めてだった。もっとも、果たして目的へ近づくような行動が出来たのか、ただがむしゃらに密林を動いただけではないのか。真耶は不安だったけれど、しかし、同じ範囲をぐるぐる回っているようでもなかった。更に沼を経て泥を身になすりつけた。なるべく痕跡を残さないような工夫もした。長い一日が終わった。夜も動きたかったが危険でもあり、木に登ってずっと眠らず、耳を澄ませた。空腹が今更のように募った。意外な近くで猛獣の咆哮に混じって犬の怯えたような遠吠えが聞こえた。確かに彼等はこの密林のどこかにいるのだ。彼等が執念深いのか、それとも私の進み具合が遅いのか。おそらく両方だろう。朝に近く、獣の咆哮と、そして何発かの銃の音が響いた。よほど近くに聞こえた。何が起こったのか、彼等だけに係わる事件のはずだったが、真耶は不安になった。

 

  梢の方から朝のかすかな光がにじんできた。眠れない夜を明かした真耶は木を降り、せきたてられるように歩きだした。後ろでなにものかの気配がした。真耶には不思議にも恐怖はなかった。振り向いて、グリーンの燃える双眸が真正面だった。低い唸り声とともに飛びかかってきたのを正面で受け、後ろざまに倒れていった。
真耶が冷静でおれたのは、いつかこんなこともあるだろうと予想していたことが現実になったということだろうか。彼女が励んだ柔道の身のこなしがここでも役に立ったということだろうか。四肢で抱きすくめられて、しかし真耶は逃げることなく咄嗟に彼女自身も脚を敵の胴に巻き付けて締めつけた。噛みつかれまいとする一心で相手の首を両手で押さえ締めながら熱い吐息を吹きつける顎を遠ざけた。のけぞったところへ顔を押しつけ逆に喉のあたりに噛みついてやった。敵は驚いたのか激しく身悶えして離れようとしたが真耶は離さなかった。びりびりと背中が敵の強力な爪で引き裂かれるのを感じたが痛みはなかった。ごろりと身を反転させ、上になって体重をかけた。何度となく胸で押し潰すように上半身を叩き付けた。凄い咆哮を耳のそばで聞く。もちろん渾身をこめてしがみついている四肢の力がいつまでも続くはずはなかった。相手の凄まじい力に耐え切れず、真耶は再び下に組み敷かれる形になり、結局躯を抜かれてしまった。真耶はすばやく起き直り、敵を正面ににらみつける。初めて真耶は敵の全身を見た。茶色の毛を逆立てた大きな野生の猫、ピュウマだろうか。勝てる筈はない。自分の大胆さにあきれてしまう。しかし、相手も普通ではないことに真耶はやっと気が付いた。右肩が血だらけだった。やられているのだ。明け方の、あの銃声だろうか。真耶は急に自分が今、しなければならないことを思い出した。逃げるのだ。しかし、にらみあっている敵に後ろを向けることは更に危険だった。真耶は焦った。すぐそばで銃声がした。ピュウマはその場にきりきりと舞うようにして倒れた。真耶はその銃声を聞くと同時に走り出した。
「止まれ、!撃つぞ。」
という声を聞いた。たいして走らなかった。走り出すまでに体力が限界に来ていたのだろう。更に何発かの銃声を聞き、衝撃を頭に感じて真耶は気が遠くなった。

 
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25)逆転 へ進む 

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