マヤ・パピヨン

(23)追跡


日没前に投降したシルバから真耶の脱走を聞いた看守たちは、以前の男囚の脱走の前例から、これが成功するはずはないと考えた。猛々しい男たち三人が一人の犠牲を放置して、数日で音をあげて戻って来た密林だった。まして、二度の脱走の経験がある札付きの女囚とはいえ、紛れもない若い女が、しかも裸のままでどうして正気で耐えられるだろう。女が生命をおとす危険な要因はそれこそ密林には無数にあったから、戻ってこない場合は、当然様々な状況下で死んだと考えていいはずだ。放置しておけという意見が大勢を占めたのは、彼等自身密林へ入ることを嫌ったこともあった。
沼の向こうの世界は「狩りのゲーム」をした悪魔の岬近辺の荒野とは丸きり異なった、不快で危険な世界であることを彼等はよく知っていた。だから、彼等が不承不承ながら三つのチームを作って真耶を見つけ出すべく出発したのには、所長エンリコの強い不安と意思が働いていたことは疑いない。次の朝、二組が東西に別れて海岸に沿い、彼女が一般の船に見つけられる「危険」を阻止するために、海に面した密林と長い海岸線の困難なパトロールがはじめられた。

  「狩り」の日から一日置いて、三日目に密林を目指した三番目のチームは最も人数が多かったが、意気が上がらなかった。五人ずつが二艘のゴムボートに分乗し、シルバが見つけられたあたりの沼を突っ切って密林へ入った。マングローブの森が近い沼の果て、底無しの泥沢地を苦労して進む内にも、真耶のものだった腰布を見つけ、彼女が近くに沈んでいる証拠だと悦び勇んで言い立てるものも居た。彼等はこの辛く危険な仕事がすぐにでも終わるだろうと思ったのだ。
一度泥に沈んだ獣は、数日後に膨らんで浮き上がってくるのが普通だったのだが、しかしその先になお真耶の足取りは明確に残っていた。彼等には信じられないことだったが、確かに女は沼を泳ぎ切り、しかもわずかなまといものすら取り捨て、どうやら全裸になってこの危険な密林へ入っていったらしいのだ。マングローブの巨大な樹根板根がのたくり行く手を阻む森、そしてその合間には凄まじい下生えが隠す底なしの泥沢が落とし穴のように口を開けている緑の横溢、一歩先が見えない稠密な植生。ゴムボートを置いてきたことが悔やまれる密林の中の暗い沼の前で、彼等が立ち往生することもしばしばだった。夜の露営の場所を切り開くのに多くの力がさかれ、しかも蚊をはじめとする凄まじい毒虫どもの来襲に終始悩まされた。そんな地獄で、裸のままの女がどんな困難に苦しんでいるか、想像に絶する悲惨さのなかでは、いかに強情な彼女であっても、何日も耐えられず、まず狂い、長くも生きられはすまい、というのが彼等の実感だったし、その死体、多分数日もせず白骨化して散失する死体か、死んだ証拠になる痕跡を見つけるのが絶対の責務であれば、先を急ぐことも出来ず、遅々とはしていてもなお生きて進んでいる真耶に追い着けなかったのは当然だった。二隊に別れてさまよった捜索隊の、それぞれ半数が病人になって落伍した。

  しかし、一週間後にそれら内容の乏しい報告を聞いたエンリコは、なお真耶の生存の可能性を言った。女はすでに正気ではないのかもしれないが、五十マイル以内には二、三のインディオの集落もあり、町の教宣者たちとの接触もある。彼等に女を見つけられないという保証はないのだ。所長はこの監獄の存否自体が、この女の逃走の結果に左右されるだろうことを強調した。万が一にでも外部の者に発見されることは避けたい。死んだにせよ、何か、女だった体の一部でもいい。俺を納得させるものを見つけるのだ。

  所長は真耶の、監獄で発揮した奇跡のような精神力と実行力から、ひょっとするとまだ彼女は密林に生きていて、なおそこを抜け出すための努力を続けているのかもしれないという思いを捨て切れないのだった。それで、数少ない近隣のインデオの部落にヘリを飛ばし、若い女が迷い込んだら殺すことを示唆して回り、一方では最も近い町、それでも直線距離で百キロはあったが、そこの警察署へ内々の協力を頼むと共に、地図に見られる、彼女の通りそうなルートの間にある川の支流にヘリから降ろしたエンジン付きボートを配置し、更にヘリをひんぱんに飛ばして人影の捜索を続けたのだった。
エンリコの執拗さを周囲は哂った。もう十日になる。所長が自分で密林に出向かないから実感出来ないのだ、女が生きているはずもないことを。しかし、その日、「悪魔の岬」から三十キロ離れたオリノコ川の迷路のような支流を捜索していたヘリから、人間が川を泳ぎ渡っているのを見たという報告が所長に入った。半径二十キロ以内に人間の棲む集落はない地点だった。正確な位置が待機していたボートに知らされた。監獄に残されていた真耶の数少ない衣類の臭いを嗅がされた、看守たち自慢のボクサー犬二頭もそこにいた。


  鰐から逃れたことは真耶に大きな自信を植えつけた。常人には耐えられないほどの深い傷も、出血も彼女の気力を削がなかった。傷口に厚肉の葉の汁を塗り、苦痛に耐えて半日後には行動を再開した。真耶はひとり唱えた。ともかく、私は生き抜くのだ。生き抜いてみせる。それだけに集中出来る状況なら、歩みを落として日々の生活をもっと健康的なものにすることも意味があるだろう。例えば火を起こして今は生で食べている肉を焼くとか。そんな楽観的な真耶の目論見が少しかげったのは、上空をヘリコプターが飛んだときだった。一度は暗い密林の中で、機影は見えず、ただ爆音だけだったが、彼等が自分の追跡を諦めてはいないことを想像しないではおれなかった。真耶は重い疲労と不安を感じた。そして、二度目は広い川を泳いでいたときだった。かなりの低空で、危険を感じた真耶は頭から水中に沈み、息の続く限り潜り進んだ。殆ど対岸に近く、覆いかぶさるような緑の茂みのそばに顔を浮かせ、すぐその中に身を隠し、潜り込んだ。普通なら危険ないきものがひそんでいないかと慎重に近付く場所だった。まだへりは近くを飛んでいたし、鰐よりも恐い敵だった。見られただろうか。多分、見つかったのだろう。真耶は嫌な予感に悩まされた。

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