マヤ・パピヨン

(21)密林彷徨


知らない間に腰布をなくしたことに気づいた真耶は、しばらく茫然として、ひどい落胆に襲われ、しばらくそのままで身動きもしなかった。出来なかった。随分長い間そのままの姿でじっとしていた。十分もそこにいただろうか。もっと長かったかもしれない。ようやくあたりの壮絶な光景があらためて彼女の身心にしみこむように入ってきて、少しづつ気力を甦らせた。何とかしなければ。どうしよう。しかし……。今の真耶には、捜しに戻る気力はもうなかった。精魂を尽くしたような泥沼との闘いを再び繰り返したくはなかったし、夜が迫ってもいた。いずれ孤独な密林の逃避行では、裸を恥じる理由も余裕もないだろうし、下腹部を辛うじて一巻きに覆うだけの布片が、夜の真耶の躯を寒さから守ってくれる筈もなかったけれど、あるいは生ぐさい沼の水をあの布で濾して舐めることでひどい下痢を引き起こすような原虫などを飲み込む危険を多少は避けられるかもしれなかったし、何にせよ逃走の最初の日に、人間としての最後のしるしを失って、生まれたままの姿になり果て、以後の長い日々をひとり、異境をけだもののようにさまよわねばならない我が身がひどく惨めに思え、大抵の覚悟を決めた筈の真耶も、余計に気力が萎るのだった。

 

  すぐ日が落ちた。密林での最初の夜だった。真耶は泥人形のような躯を洗うすべも気力もなく、汚れたそのままマングローブの絡まった巨大な根の間に横たえて空腹と恐怖を意識しつつ脚を揃えこごめて両手に抱き、卵のように小さくなって眠りについた。暗黒の中でぞろぞろと躯近くを這い回るいやらしい虫どもの気配には地下牢などの経験から慣れている積もりだったけれど、この暗黒は密室のそれではなく、彼女を追ってくる最大の敵である猟人どもの気配をはじめとして、あらゆる未知の危険が予感される、大自然の中での暗黒だった。実際、真耶の思いの及ばない不思議な野獣の咆哮や悲鳴、そしてざわざわと森を駆け抜け、通り過ぎる奇怪なものどもの気配があたりに満ちて、日中不気味な沼を泳ぎ抜いた真耶の勇気も、この夜を平静に眠る大胆さはなかった。木に登ろうかとも思った。水辺にも近いこのくぼみは躯にたかる虫どもも地下牢の比でなく、多彩で多かったし、第一、追っ手や肉食獣たちの目にさらされる可能性が高くて余りにも危険過ぎた。しかし、暗黒の中で今動くのは毒虫どもを踏んだり、泥にはまったりして更に危険だった。そのうちに凄まじい蚊の攻撃が始まった。真耶の剥き出しの肌身のあらゆる部分が襲われた。様々な種類の蚊が波状的に繰り返し襲った。ひと刺し、ひと刺しが凄まじい苦痛を伴うものもあった。真耶は狂い、もがきつつ、改めて裸でこの森に入ったことの思慮の無さを悟った。蚊は野獣どもにもまさる最悪の敵だということを真耶は最初の夜にしたたか思い知らされた。眠ることはとても出来ず、あとはまんじりともせず朝まで蚊と闘って過ごした。何度も全身に身辺から泥をとって塗り重ね、激しい頭痛と熱気に苦しみ続けた。

  明るくなると蚊は嘘のように来なくなったが、彼等の毒による熱と全身のたまらない痛痒感は残った。ぞっとするような全身の腫れが真耶を絶望的にした。多分、マラリアや、悪性の風土病が自分の躯を蝕み、衰弱していくだろう。けだるさで立ち上がる気力もなかったが、こんな密林の入口でぐずぐずしておれば、すぐに追っ手に見つかってしまうだろうという恐怖が真耶に兆し、気力を奮って再び密林を進み始めるのだった。行く手はなお薄暗い、足元もおぼつかない泥沢と樹根板根のとぐろを巻く迷路のようなマングローブの地獄だった。

 

  真耶には二つの方途があった。ひとつは海から離れずに海岸に沿って進むこと。そしてもうひとつはこの密林を奥へ、海から離れて内陸部へ入っていくことだった。海岸線は断崖が多く、困難なことでは変らなかったが、方角を定めやすいことが有利だし、それに密林をあてもなくさまようよりも人間、特に沖合を通う船などに見つけられる確率は大きい筈だった。しかし、監獄からの追っ手はまず海岸線から捜すだろうし、海賊に襲われたことに始まったこの災難を思うと、船は頼りにはならないような気がした。更に近くの海岸線の村にたどり着いても、警察を味方に引き入れている彼等であれば、最も近い村や町へは手配が回っている可能性も高かった。

 

  結局真耶は、どこまで行かねばならないのか分からないけれど、追っ手に捕まる可能性の低いこの密林を奥へ進んで行こうと思った。ここが地理上のどこに当るのか、いまだに分からないけれど(シルバは知っていたはずだったけれど、教えてはくれなかった。)、ここが近代国家であれば、必ず海岸に沿って道路が敷かれてあるはずだ。五キロか十キロか、遠くても三十キロも歩かない内にそれに出食わすに違いない。淀んだ空気の中にある海辺の村や町を目指すよりも、開けた社会に通じるそんな道路で、運が開けそうな自動車を選んでつかまえる方が、救われる可能性は高いように真耶には思えたのだけれど、しかし、密林での三十キロがどんなものか、真耶はすぐその困難さを思い知ることになる。その上、彼女の地理上の推論は、不幸なことにここでは当っていなかった。オリノコ河の三角州をなすこの広大な低湿地帯は名立たる悪疫猖厥の地で、インディオも含めて基本的に人間の棲める場所はなく、自動車道も作られなかったのだ。一番近い道路はこのデルタを避け、真耶が分け入った場所からほぼ八十マイルも離れた内陸部を通過していた。真耶がそれを知っていたら、このような無謀な逃避行を決行したかどうか。

 

  ともかく、単に距離を稼ぐため動き進むだけでも、足場の悪い湿地帯は危険で困難な場所だった。これは逃避行であり、真耶の心労はこの方面へ神経を使うだけでも大抵ではなかった。彼女は追われていた。間違いなく監獄の官吏たちは真耶の逃亡を許すわけにはいかなかったはずだし、捕らえて殺すことも辞さないほどの動機はあった。真耶の神経はまず追跡者たちの気配を探り、隠れ逃れることに費やされた。彼等に見つかることなく、出来るだけ早く、間違いなく彼等から遠ざかる方向へ移動すること。余り開けた場所を進むことは姿を発見され、狙撃されるおそれもあったから避けねばならなかった。

  もっとも、そんな開けた場所は余りなかった。下地は、大抵泥沼のような歩行の困難な湿地が続く、立体迷路のようなマングローブの森か、そうでなければ極端に樹木の密度が濃く、しかも全くみとおしのきかないほど下生えの草が密生した暗い叢林だった。マングローブの森は、たこの足のような錯綜した根や幹を伝い、身を預けて猿のように渡り歩く以外に進む法はなく、稀れの開けた地帯は底無しの泥沢に足を取られて身動きもならず、たちまち首まで埋まり込んで死を待つしかない恐ろしい地獄だった。それに続く暗い密林も、足元は確かであっても前は緑の壁とも言うべき稠密な植物群が絡み押し合う世界で、それらをかき分け、くぐり、踏みしめてわずか進むにも難渋を極めた。もちろん上空は大木の樹冠が何重にも覆いかぶさり、日中も洞窟さながらの闇で方角も分からなかった。鋭いいら草のとげやガラス質の鋭利で剛い葉の端が真耶の剥き出しの肌を刺し、切りさいなんで血を滴らせた。そういった不快さは樹間から雨のように降って来て彼女の肩や背中に吸い着き、たちまち血ぶくれして身体中を這い回る巨大な蛭やら、たまさかより掛かった木から移って強力な顎で肌を噛みちぎり、肉にもぐり込んでくる赤蟻の一群のたまらない疼痛感に比べれば物の数ではなかった。もちろんそういった辛さも、一定の周期で真耶を襲い、目も開けていられないほどのすさまじい数で全身を包むように攻撃してくる蚊や砂ばえの集団による拷問のような時間よりは、まだましだった。もちろん大抵は夜の睡眠中にその恐怖は始まり、去って行くことであり、異臭のする泥を全身に厚くなすりつけることで攻撃から多少はまぬがれたけれど、日中のたまらない高温と湿度を耐え抜くためにはその泥をかきとり、洗い流す必要があったし、あまつさえ不潔な泥の中の線虫や細菌が彼女の数え切れない全身の傷に刷り込まれてさらにひどい化膿を引き起こしてもいたのだ。真耶は絶え間ない陰湿な拷問を受けるようなこんな地獄へ、素裸で迷い込んだ自分の無謀さに腹が立った。

 

  なるほど真耶に衣服を与えなかった彼等の思惑は十二分にその効用を発揮していたということだろう。真耶の膚に間断なく襲い来る吸血性の虫どもは、例えばモスリンのサファリスーツの上からでも難無くその太く長い針を刺し貫いて大量に血を吸っていく巨大なモスキート群もいたけれど、大方は膚を下着一枚で覆っていれば防げる、蛭や目に見えるかどうかといった小型の蚊や砂ばえなどが殆どであったし、見た目にはごく小さなそれらの攻撃の一噛み一噛みが、なお激痛と腫れを伴う凄まじい毒性のものだったのだ。

 

  しかし、普通の人間が三日と耐えられず、心身衰弱して死ぬしかないような状況で、真耶が何とか狂うことなく生き続けたのは、彼女の恵まれた体力と驚くべき我慢強さにも増して、やはりあの無数の虫どもと共生した懲罰牢での経験がためになっているはずだった。地下の牢と、暗黒の密林の夜という違いはあっても、立って眠る真耶の足元から、もたれかかる大木の幹から様々な毒虫たちが這い上がり、移ってきてその膚の暖かみに親しむだけでなく、当然噛まれ、その痛みと毒に苦しみ続けることも度々だったし、そんなことの連続から知らず身につけた身体の耐性が、真っ黒に全身を蚊に覆われて転がりもがいた後の腫れと毒の負担を致命的なものから救ったことはありうることだった。

 

  やがて真耶は日々のそんな狂おしい状況に身体が適応して熱も出なくなり、ひどい倦怠感も薄れていくことを感じ、全身の腫れも収まった。もちろん不快感やマラリヤなど悪性の風土病の発病の不安はあったけれど、最初のように半狂乱でもがくことはしなくなり、我慢出来ればなんでもないと無視出来ることどもと、強力な毒蛇に足元へ近寄られたときなど、真の危険との違いを感じ取れるようにもなってきた。昼間の吠え猿の大群のおそろしげな音声に驚いたり、夜の様々な遠い野獣の咆哮や、夜鳥の鳴き声にいちいち怯えて目を覚ます日々から、それらには全く反応しなくても、すぐ身近かで起こったかすかな葉ずれや物音が発する気配の重大さを感知して目覚め、怯えることなく冷静に周囲を見詰め、身構えることも出来るようになった。日々の困難さと必要性から、夜の暗黒の中で、かすかにではあっても夜目が効くようになった。逃走者の常である周囲への過剰な目くばりや怯えは真耶の場合、それら自然への対応に追われてむしろ二の次になっている面もあった。もちろん追跡者の存在を思い出さなかったことは、殊に眠る前には一度もなかったけれど。。

 

  もちろん真耶が最も苦しんだのは飢えであり、渇きだった。シルバ等が言っていたように、この稠密に生物の密集する森で、人間の食餌になり得るものは簡単には見つからなかった。真耶はよく方角を確かめる必要もあって大木に登り、太陽の位置を確かめることがあったが、それはまた喬木の梢などに成るだろう食用の木の実を捜す目的もあった。たまに危険を冒して蜂の巣を落とすこともあったが、どちらも得られることは稀だった。カピバラや小さな鹿はよく見かけたが逃げ足が素速く、素手に何の得物も持たない真耶には捕らえることは難しかった。真耶の主な餌は暗い森の底にしばしば束になって繁茂するきのこか、でなければ簡単に捕らえられる蟹やざりがになど水辺の甲殻類か、それがなければ蟻や大型の昆虫の幼虫のような賎しいものばかりだった。そんなものを見つけると手当り次第に食べた。大きなとかげやみみずなども裂いたりちぎったりして勇気を奮って口に入れた。亀の巣から卵を掘り出したときは何日もかかって堪能した。みな生で食べた。食べる喜びはなかったが、吐かず、嚥下できる自分が信じられなかった。

 

  奥地で生きる原始インディオでもこの真耶の日常には眉をひそめるだろう。石器時代人と比べられる彼等すらも火を通さずに肉や虫を食べることはなかった。生肉を噛ることがどれほど危険なことかを彼等も経験から知っているのだ。生食、悪食が身体に悪いことは真耶にも分かっていた。熱病や赤痢をもたらすアメーバ類は泥や水の中にうようよしていたし、腹の中で成長して胎内を食い荒らす恐るべき寄生虫などもこの熱帯密林のいきものの肉には沢山巣食っているはずだった。しかし火を起こす余裕はなかったし、追跡者に見つかるのが恐くもあった。ともかく当面の飢えを満たすことだけに専念し、少しでも距離を稼いで、早く目的の場所にたどり着きたかったのだ。

  ひどい食餌と非衛生な監獄でひとりいじめ抜かれ、ことに最後近くには百人の囚人になぶり尽くされて衰弱したあともすぐ気力を取り戻した、あきれるほど健康で頑強だった真耶だったし、ましてこの危険で困難な逃避行ではとても健康などに顧慮する余裕などなかったけれど、彼女の最大の危険な敵は、結局はこのような食餌に紛れて胎内に巣喰う目に見えない寄生虫や、見えてもごくちっぽけな、しかし凄まじい数を頼んで彼女の剥き出しの外部器官や膚の傷から侵入してくる陰険な悪鬼のような生物だった。日常のように吸血の蚊や蝿の大群が真耶の隠し様もない剥き出しの膚を真っ黒に隠すほどの凄まじさで襲い、目も開けられないほどに責め苦しめて錯乱させる、そんな状況で悪質のマラリアやその他の熱病が彼女を冒さない方が不思議だったろう。あらゆる耐え難い不快感と熱からくる倦怠感に悩み苦しみつつも、真耶の気力を支えているのはただ、この辛い逃避行がいずれ終わるに違いない、終わらせなければならないという希望と熱情だけだった。

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