マヤ・パピヨン

(20)人狩り 4

真耶は鮫を避けて注意深く岸へ泳ぎ寄った。幸い誰にも見つからなかったようだった。恐らく自分を捜してうろついているハンターたちが近くにいるはずだった。荒い息を押さえながらしばらく疲れ切った身を岩に貼りつけて休んだ。ティナは結局岸に寄るしかなくなって、既に捕まってしまったようだった。

  鮫がなお近くを去らず、真耶は海を諦めた。岩場を這い進む。自分の唯一の着衣である腰の布が剥がれないように気を遣う。あれだけ懸命に泳いだあとで、失われなかったことを感謝したこの飾りものも、今は邪魔にも思う。しかし取ることは、自ら全裸になることはさすがにためらわれた。匍伏前進を繰り返すうち、やがて浅い茂みに入った。女が木に縛られている。シルバだった。下半身が裸で、既に一度犯されているのだろう。ぐったりとしている。あたりに人影はなかった。真耶は走り寄っていましめを解いた。あたりにシルバのパンツはなかった。

「走るのよ、一緒に。」

座り込もうとするシルバを励まし、二人は茂みの中を走った。既に目的の広い沼が逃げる先の視界にあった。幸いだれにも見られなかったようだ。真耶は沼へ入って行き、シルバもしばらくためらっていたが、やがて及び腰でついてきた。腰あたりの深みで全身を沈ませ、目から上だけ出して更に泳ぎ進む。海に比べて波がなく、水も生温かくて泳ぎ易かった。以前真耶が偵察に出た黒人たちを待ったような、岸から百メートルばかり離れたた場所だ。もう足はつかない。立ち枯れの木につかまってしばらく休んだ。シルバは下半身が裸のままなのを気にしてか、水を恐れひどく気弱になっていた。不透明な水で水草も多い。知らぬ間に近付いた鰐が襲うのではないかというのだ。そんなものはここにはいないわ、と真耶は励ました。このまま泳ぎ進んで奥の森へ入るのよ。ここにいてもいずれ見つかるだろうし、戻るにしても、一旦身を落ち着けなければ。

  怯えるシルバをなだめなだめして泳がせ、真耶たちは更に奥へ進んだ。浮き草の固まりのような、体を乗せられる小さな島があった。シルバはそこに這い上がったきり動かなくなった。貴女が一緒だったからここまでは来れたけど、もう疲れて手足も動かないし、これ以上はとても泳げない。ここは安全なようだから、夕方まで待ち、暗くなってから戻る。そう言うシルバは水から身を抜いてからは落ち着いたようだった。しばらくは疲れ冷えた手足を日に当てて真耶も一緒に休んだ。貴女も襲われたのね、と衣服のないことを不審がるシルバに真耶は、襲われたのは確かだけれど、と言葉を濁した。真耶が更に泳ぎ、奥の密林へ入っていくことを言うと、シルバは息を詰めて真耶を見た。貴女、間違いなく死ぬよ。食糧も火だねも山刀も持たず、裸の身ひとつで密林へ入って、どうしようというの。進んでいけばどこか、町へでもたどり着けるとでも思っているの?。とても無理よ、いくら貴女が勇敢で、強くても。このあたりには人間の匂いなど何もない。インディオすら棲めない地域なのよ。水びたしの深い森がずっと、はてしなく続いている。とても歩いて行けるところじゃない。迷って、飢えたあげくに鰐に食われるか、精々いやらしい水蛇に絡まれて泥の中へ引き込まれるか、大山猫に襲われるか、そうでなくてもこんな水の中には人食い魚がいっぱいいるわ。少しでも油断すればこぶくろや尻の穴へもぐりこんできて内臓を食いちぎる嫌らしい悪食のどじょうもいるのよ。知らないの?水辺で暮らすインディオの女が腰につける「貞操帯」はこんな奴から身をまもるためだと言われる位なの。真耶はその陰惨な話の内容よりも、彼女がよほど、カルメンなんかよりもこの密林についてよく知っていることに驚いた。

「シルバ、どうしてそんなに詳しいの?このあたりのことに。」

シルバはちょっとためらったが、A監房にいたころに抱かれた「客」にヘリコプターの操縦士がいて、以前密林に不時着したときのことなどを聞かされたと言った。三日後に救出されるまで一歩も機内から動くことは出来ず、たまらず外に出て歩き回った一人が戻ってこなかったこと、あとで散乱した骨とぼろぼろの服だけがすぐそばの沼で発見されたことなど。男の死因は結局分からなかったけれど、いずれ様々なことが容易に考えられた。鰐に引き込まれて水死したのか、毒蛇に襲われたのか、あるいは水蛇に巻き締められて窒息したのか。兵隊蟻の群れに出遭ったのか……。

「ともかくここの密林は人間にとっては死の世界なの。まず、水ひとつとっても、こんな沼の水、うようよ寄生虫なんかがいてとても飲めないし、人間の食べるものもない。何も危険に遭わなかったとしても、結局、飢え、渇えて惨めな死に方をするのがおちよ。それより、これまで通り”悪魔の岬”で一緒に暮らしましょうよ。美しい貴女なら、もっと快適に過ごすことも出来る。貴女しだいよ。」

  しかし、真耶はもう決めていた。どうせ理解はされないだろうと思いながら静かに言った。

「シルバ、貴女がどんな事情でここに連れてこられたのか知らないけれど、私のように、何の理由もなくこんな目に遭わされたら分かるはずよ、どんな危険を冒してでもここを逃れたいと思う気持ちが。もともと、様々な不正と悪の事実を知ってしまった私達を社会へ戻す危険は彼等には分かっている筈だし、彼等の言う私達の刑期が大層いい加減で、いつかあそこを生きて出られるという保証は何もないのよ。」

  シルバはもう止めなかった。これほどおどかしても決意をまげない真耶の勇気に、気味悪さすら感じているようだった。蟻なんかの攻撃には何の役も立たないそうだけど、膚を晒すよりはまだましよ、と自分の上着を脱いで真耶に与えようとした。真耶は内心では欲しかったけれど、まだ太陽が真上から余り傾いてはいないことを言い、彼女を熱射から守るその衣服を奪うことを遠慮した。むしろ真耶はその下の囚人服が欲しかったのだった。それだけの布があれば、剥き出しの股間をしっかり覆えて、性器や肛門から胎内へもぐりこむという肉食魚の攻撃の危険からも、多少は免れることも出来そうだった。しかし自分からそれを要求することは真耶には出来なかった。シルバとても、明日からまた続く監房生活で全裸になる犠牲を払ってまで真耶に尽くすことはなかったはずだ。

  シルバがこのあたりの地理を知っている可能性はあった。真耶は尋いてみたが、首を振るばかりの彼女から何も得ることはなかった。当然ながら、彼女自身がヘリコプターで近辺を飛び回ったわけでもなく、間違った知識を与えて逆に真耶を窮地に誘うこともあったろう。そんな慎重さも感じられなくもなかった。しかし、それについてのシルバの思いは既にいい尽くされていた。つまり、どの方向へ進んでも、町はなく、危険しかないということだった。

 

  シルバと別れた真耶はひとり、また水に入り、次第に水面を覆うように広がる水草をかきわけながら泳ぎ進んでいった。何時間泳ぎ続けただろう。水は暖かだったが、長く浸かっているとやはり冷えて手足が痺れてきた。熱射で頭がくらくらするので時々腹を上にして頭を沈め、熱を冷ました。相変わらず水の透明度は悪く、顔を水につけても何も見えなかった。ただ、何度か近くの水中をなにものか、大きないきものの通り過ぎる気配を肌に感じてぞっとすることがあった。大きくはなかったが鰐も近くに見た。満腹なのか、それとも普段口にしないもので食欲が湧かなかったのか、襲っては来なかった。しかし、全くの無防備で文字通り自然にどっぷりと浸かっている真耶は、ここでは自分も人間ではなく、ひよわな水ぶたのような水棲動物のひとつであることを納得しなければならなかった。

  陸上なら対処のしかたもあるだろう。泳ぎが得意ではあっても水棲動物ではない真耶は水面下からの攻撃には何の抵抗するすべもないし、予めそれを知ることも出来なかった。そんな彼女が彼等肉食の生物に一旦狙われたら、死なないまでも大けがを避けられないだろうし、致命傷ではなくとも、移動に支障があるほどのけがをしたいきものが、密林を一人で生き抜く可能性は殆どなかったのだ。恐怖に疲れが加わって気弱になった真耶は、ともかく早く沼から出たかった。しかし沼ははてもなく続き、密生した水草、それらには鋭いとげのあるものが多かった、がなお泳ぎを困難にし、水面下を隠して不気味さを増した。疲れが手足を痺れさせ、感覚を失わせた。私はここで溺れてしまうのだろうか。巨大な浮き草の葉に子供が乗っている図をどこかで見た記憶が甦った真耶は、特に大きなひとつに乗り上がろうとして縁のとげで膚を刺して傷つき、不可能なことを知った。疲労が増しただけだった

>前途に暗い森が迫っていた。それに気付いた真耶はほっとした。ようやく水から身を抜ける。しかし安心するのは早かった。びっしりとマングローブの根が立ちふさがっている極めてはっきりした密林の際へ寄りつくまでに、真耶は二百メートル近い、泥田のような底無し沼を越えなければならなかった。安易に立ち上がればずぶずぶと躯が沈んでいき、身動きがとれなくなる場所だった。太い立ち枯れの木を倒し、浮き代わりにして、腹這いになって泥を手で掻き、少しずつ滑るように進んだ。動き続けなければ躯が泥の中へ沈んでしまうために、腕が回せない程に疲れ切った真耶には、水面を泳ぐよりも辛いことだった。全身を泥まみれにし、目に入る汚泥の不快と痛みに耐え、ようやくしっかりした木の根のひとつにたどりついたとき、真耶はついさっきまでまとっていた筈の、唯一の人間らしい所持品である腰布が、泥と格闘していた間に解けて失われているのに気が付いた。
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(21)密林彷徨へ進む 

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