マヤ・パピヨン
(14)失敗 2

三人がともかく顔を合わせ、打ちとけて話を交わしたのは、
ポンプ塔の見張りを巻いて塀を越えた後の、五時間を越える
息詰まる断崖との格闘、そしてようやくあたりが明るくなった
朝の光の中で、疲れ切った身体を岩場にもたれてしばしの
休息をむさぼった時だった。もちろん、岩壁での長い、死と
隣り合わせになった辛い時間のあいだ、三人はお互い手を
取り合い、支え合い、体温が感じられるほどに身体を接して
過ごしたのだったが。
真耶が懸念したほどには、男たちは始終触れ合う彼女のはだかに
近い身体を、暗闇ではあっても、女をずっと断っている彼等には
辛いはずだったけれど、表面上は全く意識せずに扱っていたようだった。
それで、真耶には初めてその興味深い二人の男をゆっくりと
見る機会になった。一人は中年で白髪のクレオール。もう一人は
若い黒人だった。それなりに好感の持てる顔だ、と彼女は思った。
真耶の手錠は塀を越えるときにクレオールが外してくれた。では、
彼が、どんな鍵も解くことの出来る職人なのだ!。彼の幾つかの
精妙な手作りの小道具は、親指ほどの金属製の筒に入れられて
自身の肛門の奥に入っているのだった。

いずれ、遠くない将来、二人は私の躯を求めるだろう。真耶は
そんなことを思ったけれど、それはこの脱走が、多少ともうまく
いきはじめてからになるのだろう。真耶はちょっと息を乱し、
淫らな思いを密かに恥じた。二人の男は真耶よりも、よほど
好色からは遠い人間のように思えた。

 

  看守から奪った二丁の小銃はとっくに海へ
投げ捨てられていた。身軽になり、経験者だった真耶が、
しかも男二人に支えられての行動だったこともあって、
一行は前回のときよりも早く困難な場所を乗り切ることが出来た。
ことに途中からは崖の一部に小径が見つかり、それを利用した
ことで道は一層はかどった。
しかし皆の目標だった、夜の明けない内に荒野へ入ることは
出来なかった。
成功の見込みのない冒険に賭けて、後悔しないか?
というのがクレオールの、最初に真耶が聞いた文句だった。
彼女の返した華やかな笑顔が男には眩しそうだった。
考えていた以上の女だ、おまえは。おれたちの及びもつかない勇気と
能力を秘めているように思える。何者なんだ、おまえは。

「わたしは、ただの不運な旅行者だわ。こんなところで
朽ち果てたくはない。どうしてもここを逃げ出したい、それだけ。」

自分がクレー射撃のオリンピック候補だったことや、
警官になってから柔道にひたすら打ち込んだことなどは余計な
ことだった。平凡な日本人として見て欲しかった。しかし、
世界の最高を目指して訓練された時期を持った真耶の肉体が、
華奢にも見える外見に似合わず並みはずれた運動能力と
精神力をなお失っていないことは、確かな目を持った人間には
感じられるのだろう。この女を誘ったことは失敗ではなかったと
いいたげな表情だった。
「マヤ、経験者だとしても、おまえはよくやっている。この前の
ときはどこにいたんだ、今の時刻には。」

「この足場を知らなかったし、まだ壁の下から抜け出て
いなかったわ。もっとも、ずっと崖下の、海に近い場所だった。
だから思い切って海へ飛び込んだの、泳ぎは得意だったし、
鮫にみつからなかったら成功していたでしょうね。向こうに
見える、あの岸辺をめざしたのよ、森がすぐ近くに見える……。」

「畜生、鮫のやつ。鮫さえいなければ、こんな凪だし、
最短距離を泳ぎ抜いてあっというまに森ヘ入れるんだが。」

既に進むこと自体が危険な崖は終わっていた。前回
真耶が捕捉された海岸の岩場は目前だったし、注意深く岩陰を
進めば、あるいは既にあたりへ展開しているかもしれない捜索隊に
見つからずに森まで進むことは可能なようだった。
男たちが今後どんな計画でいるのか、まだ三人はゆっくり
話し合う機会を持っていなかったけれど、真耶は彼等が自分を
女としてでなく、信頼に足る脱走行の仲間として遇し、躯に触れる時で
すら性的な関心をあらわにしないことにちょっとした感銘を受けていた。
もちろん今そんな余裕がないことは確かだったけれど、この二人の
量刑囚が、多くの看守の及ぶべくもない品格を備えていることは
はっきりしていた。

  ともかくここで余り時間を取ることは出来なかった。
すぐ三人は再び進み始めた。十エーカー以上あるという岬の
つけねに広がる荒野のかかりに彼女たちはいた。既に監獄のある
古城は巨大な奇岩の羅列の後ろに隠れ、前方もまた高いものは
五十メートル近い奇岩が幾つも屹立する荒野だった。植物は
全く見えない。なだらかな砂地が岩を半ば埋め、また起伏の激しい
地溝が縦横に走る。水がたまっている場所もある。三人はそれぞれ
間を開けて、次第に高度を増す太陽を背に進んだ。一人が
見つかっても他が逃げられるようにお互いの間隔を大きく取り、
しかし確認が出来るような距離だった。じりじりと太陽が次第に
熱気を強めてくる。男たちにとってもこの荒野は初めてだったし、
どこから探索者の狙撃がなされるか分からなかったので歩行は
慎重を極めた。二人の男に挟まれて進む真耶もこの静かさは
異様にも思えた。多分、彼等は自分たちがまだ小銃を持っていると
思い、警戒を強めて姿を現さないのに違いない。一旦、三人の何も
持たない姿を見られたら、彼等は大胆に姿を見せて追い始めるだろう。
まだ自分たちが見つかっていない証拠だった。

  ひときわ高い岩塊の周囲を三人は這いながら回り込んだ。
男たちは上半身裸で、腿の半ばまでの半ズボンが囚人服だった。
黒人は比較的色が薄く、クレオールは褐色の膚で、真耶の膚の色も
含めて赤いこの地の土の色と余り異質ではなく、照りつける太陽の
下でも、遠くからでは見つけにくいのだろうか。もっとも剥き出しの
肌を灼く熱線と周りの焼けただれた地面や岩、砂の照り返しを受けて
何時間も緊張しきった時を過ごす彼女等が水もなく日陰もなく耐える
には限度があるはずだった。殊にほとんど丸裸の若い女において。
しかしあしうらから血を流しつつも何の弱音も吐かず懸命に従って
くる真耶は、男たちにとってはこの上ない勇気のもとだった。

  静かさは続いた。岬の一部のはずだったが、このあたりは
もうつけねに近く、周囲を眺め渡しても海が見えないほど広くなっていた。
しかし起伏が大きく、まだ荒野と岩の小山がその先にあるはずの
森を隠している。真耶は正面のひときわ高い岩山に登って、自分たち
の目的の地を早く確認したかった。後ろの白髪に手振りでそれを
伝えると、敵に見つかるからやめろ、と言う。それにしても、どこに
我々の追跡者はひそんでいるのだろうか。息詰まるような空気の中で、
真耶はいっそ脱兎のように全速力で走り出したい欲求に駆られていた。
森に飛び込みさえすれば、当面の危機は逃れられるのだ。もちろん
あとどれだけ進めばその安全圏に達するのか、真耶には分からなかった。
男たちにも分かってはいないのだろう。

  次第に荒野は高度を下げ、ブッシュといわれる
低木の茂みがあちこちに現れた。粗林のように見えて、危険な
ほどのとげいばらの密生した薮もあり、不用意に飛び込むと
身動きが出来なくなることもある。待ち伏せの看守たちがひそんで
いるかもしれないし、毒蛇などにも注意が必要だった。
そんな一帯を過ぎると次第に貧しいながらも草むらが岩肌を
おおうようになり、小さな沼が二、三見えたあと、視界一杯の
沼地が開けた。森は更にその奥に広がっているようだったが、
熱気で立ち昇る陽炎のようなもやに隠れ、見えなかった。
かなりの距離があるようだった。とろりと濁った沼の底に
何があるのか、泳いでいくには不気味であり、泥沢がこれに
つながっていると泳ぐこともならず、引き込まれてしまうという底無し
沼の可能性が高く、舟がなくては進めないと黒人が言う。
二手に別れて調べようという白髪の提案で、男たちは、太陽が
真上に来た頃にはここへ一度戻る、という約束を交わし、
左右それぞれが決めた方角へ、沼のへりに沿って進んで行った。
沼に入るのは良いが余り奥は危険だと言い置かれた真耶は
一人その場に残された。男たちは起伏の激しい岩場の向こうへ消えていった。

  真耶の場所は四方にかなり見とおしが利いたが、
つまりは敵が現れたらすぐに発見される裸地だった。炎暑にも負け、
真耶は沼に入り身を沈めた。とろりとした、濁った暖かい水で、
飲めそうになかったが、少し深みに入れば身を隠すことは
出来そうだった。鰐などが棲んでいれば襲われる危険はあったが、
彼等の言葉を思いつつも、密林へ分け入ろうという人間がこれくらい
のことで気味悪がっていてはとてもやってはいけないだろうとも思い、
岸を離れてしばらく奥へ泳ぎ進んだ。立ち枯れの樹々が増え、
水草が水面に広がる。もう真耶の足がつかないほどに深くなった。
枯れた木の株のひとつに身を寄せて休んだ。何の物音もせず、
生物の気配もない世界は不気味だった。何度か頭から水に潜って
暑さをしのいだ。腰布を解いて水を濾し、わずかにのどを潤した。
水に浸かっていることが渇きを多少は遅らせているようだった。

  太陽は既に真上を過ぎて、かなり経った。このまま
誰も戻って来なければどうしようか、と真耶は心細くなっていた。
戻るはずはない。彼等は、多分、最適の逃げ路を見つけたのだ。
敵が近付いていることは確かだったし、男たちに戻る必要はなかった。
いずれ、女は彼等が生きるためには不要だったし、重荷ですらあったろう。
真耶は熱でぼんやりしはじめた意識の中でこんなことを思った。
私も行こう、一人ででも。元の岸へ戻ろうと泳ぎ始めたとき、右手の
丘から黒人が戻ってきた。真耶は疑ったことを少し恥じた。泳ぎを
早めようとして、逆にこおりついた。顔だけ出して男をじっと凝視した。

  男の動きは自然でなかった。立っているだけで精一杯の
様子で、何度かよろけた。明らかに傷を負っていた、それも
致命傷に近い。追っ手に見つかったのだろうか。真耶は敵の
接近を予感した。ここにいれば、あるいは見つからないかも
しれなかった。真耶の位置は岸からすでに百メートルを越えて
いた。立ち枯れの木も多く、瀕死の男の目が彼女を見つける可能性は
少なかった。真耶は浮き身のまま様子を見ることにした。
男は追われているのだろうか。そうだ、間違いない。
そして、危険を自分に知らせるために戻って来たのだ。
来ないほうが良くはなかったか?。いや、この方角は危険だ、
ということを命を賭して知らせに来てくれたのだ。女がいないことに気付いた。
そこで男は力尽きて座り込んだ。倒れ伏した。もう動かない。
安心したのだろうか。自分は出ていくべきだろうか。敵はまだ来ない。
敵に襲われたのでないとしたら。男は何かの事故に遭い、手当を
必要としているのだろうか。何か私に伝えたいことがあるのか。
敵はもう来ないだろう。真耶は水中で解いていた腰布を
立ち泳ぎしながらまたゆわえ直し、岸へ向かって泳ぎ出した。

  男は傷ついてはいなかった。しかし既に目は閉じられて、
意識がなかった。真耶は水辺に男を引きずって行き、水を顔に掛けた。
男はうっすらと目を開け、急に驚いたように身体を震わせて声を出そうと
した。怒ったように何かを言った。行け!早く!。そして今度は間違いなく
こときれた。真耶はそれを確かめる前に十人近い、見慣れた男たちが
銃を構えて周囲を取り巻いているのに気が付いた。

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15)懲罰の雑居牢へ進む 

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