「マヤ・パピヨン」
(10)失敗・1

真耶は北の断崖の中程に取りついて、月明かりを頼りに
そろりそろりと這って動いていた。明くる日もこの崖にいなければ
ならないとしたら、そんなことにはなりたくないが、多少は太陽の
直射から免れるに違いない、北の斜面を選んだ方がいいだろう
と考えたのだが、赤道に近いこの地方では十月の今になっても
正午には殆ど真上に敵が来て死の熱射が続くのだ。
もしそんなことになったら、そして、もし見つかりそうだったら、
海へ入って泳ぐのだ。水浴の快感を思い、真耶は朝を
待ち遠しくも思った。

 

  真耶の強みは身ひとつで逃れたことで
あり、身軽さでこれ以上のものはなかった。もっとも、
はだしのままで、履き物のないことが悔やまれた。今は
フリークライミングじみたことをしているので、はだしは
むしろ都合が良かったが、明日からの岩や刺だらけの
地の道を歩くとなると、それは危険ですらあった。
二ケ月近い監房でのはだしの生活もさほど真耶のあしうらを
分厚くしたわけではなかったようだ。もし、鮫などの危険さえ
なかったら海岸沿いにカラカスまで泳いでも見れるのだが。
真耶は何キロも泳ぎ続けることができた。

  もちろん、朝になったら監獄からは捜索隊が
出るだろうし、それまでに岬から密林へ入ってしまわねば
ならないだろう。そんなことを思いながら、真耶はこのあたりの
正確な地理をほとんど知らないことが口惜しかった。例えば、
ポンプ塔の横の塀からすぐ崖へ出なくても、密林へ通じる近道が
男囚の収容所のそばにあったかもしれないし、収容所の中を
含めれば、それはまず間違いなかったろう。もちろん、監視塔
からは丸見えの塀の上を走っていくことも併せて、さすがの
真耶もそういった看守たちがうようよいるに違いない監獄の中を
堂々と突破していく勇気はなかった。

 

  そして、想像はしていたけれど、北の断崖は
やはりてごわかった。ほとんど下が見えない状態で、足場を
さぐりつつ斜めに海へ降りていく。少しは傾斜が緩くなったら
距離を稼ぎたいとは思っても、今はただ、滑落をしないように
するのが精一杯で、頭上に重苦しく感じられる男囚の建物の
気配からなかなか抜け出せなかった。思い切って海へ飛び
込んでみようか。その方がずっと早く岬のつけねに辿りつけ
そうだった。しかし、夜の、真っ暗な海に飛び込む勇気は出
なかった。まだ半分も降りてはいなかったし、こんな姿勢から
跳び降りても遠くへは飛べず、岩に身体を打ちつけそうだった。
風が出てきた。疲労が募り、眠気はなかったが意識がかすむ
瞬間があった。足を滑らせて何メートルかを滑り落ちた。
ともかく留まったが、手足の爪がはがれ、胸を打ち、身体も
傷付いたようだった。着衣はもっと悲惨だった。腰の紐が左右で
切れ、ずたずたになった前はにじみ出る血を押さえる役目も
しなかった。月が建物の向こうに消え、足元も周囲もまったく
何も見えなかった。もう動く気力を半ば失った真耶は、このままで
明るくなるまでじっとしていようと思った。

 

  B監房の女囚ひとりの脱走(の可能性あり)
との報告を受けた所長は、半分以上それが誤報であろうと
考えつつ、ともかく十名の看守を岬の「のど」に走らせた。
男の囚人には前例があったが、女には自殺以外にこの種の
事件がなかった。幸い、ストライキは今夜終息したし、明日
になったらもっと員数を割くことも出来た。だが、その必要は
ない。おそらく、明日の朝になったら女の身体の断片が近くの
海に浮いているのが発見されるだろう。それにしても、どうして
鮫どもはもっときれいに食事をしてくれないのだろうか。
もちろんいずれあとかたもなくなってしまうものではあるが、
自分は立場上一応それを確認しなくてはならないのだ。

  すぐあとでその囚人が真耶であることを
聞いた所長は、やはり脱走は誤報ではなかったのだろうと
考えた。あの女ならやりかねないことだ。どれほどの準備が
なされていたのか、早く詳細を知りたかった。これが失敗に
終わることは間違いないにせよ、彼女には死んで欲しくなかった。
例え役得の看守どもに犯された真耶であっても、まだ彼には
未練があった。機会があれば思う様慰んでみたかった。
今度生きて戻れば、それを実現して見ようか。

  夜を徹して収容所と岬ののどにあたる
荒れ野の間を捜索し続けた看守の一人は、疲れて北の
海岸線に出た。急に明るくなった朝の太陽の下で海が
ねっとりとうねっていた。収容所のあたりの断崖がこの
あたりでは高さを減じ、なだらかな岩場になって、比較的
容易に海へ近づくことが出来る。
この海で彼等は非番の時に泳ぐこともある。もっとも、
あたりに多い鮫に気をつけての、あまりのんびり出来ない
海水浴である。朝の凪で、海はおだやかだったが、波打ち
際はそれでも白く泡だっている。看守の視線が水際から
更に遠くへ移った時、その中に思いがけないものを見た。
人が泳いでいた。波を立てない静かな泳ぎだったが、かなり
速かった。脱走犯だ。看守は直感し、岩の陰に隠れて目を
離さないようにした。どこから泳ぎだしたのか、多分、監獄の
下の崖だ。暗い間は身をひそめていて、明るくなった時点で
水に入ったのに違いない。岸から十メートルほどのところを
ほぼ並行に泳いでいる。時折りこちらの方を見るのは、
寄りつく場所を決めかねているのだろう。なだらかな岩場とは
いっても、あたりは海から簡単に揚がれる場所ではなかった。
砂浜はまだかなり先になる。看守は女の泳ぎ進む方向に岩から
岩へ身を隠して、相手に見られないように苦労しながら動きつつも、
自分がこの脱走犯を捉える幸運に浴することがほぼ確実だという
意識で舞い上がりたい気分だった。女が名うての美女だという
ことを男も聞き知っていたのだ。そのためにも奴に気付かれては
駄目だ。しかし、砂浜にたどり着くまでに他の同僚に見つけられる
かもしれない。奴が疲れ切り、あるいは気分を変えて早く近くの
岩場に寄りついてくれることを男は願った。

  そのうち、この海ではさほど珍しくもないことが
起こった。泳者の様子は劇的な変化を見せた。急に猛烈な
泳ぎになったのだ。激しく腕を回し、脚をあおる。方向を
看守の方へ転じた。鮫だった。背びれが明らかに泳者に
向かってくる。看守は女の悲惨な運命を予感し、自分の
こととして残念にも思った。女の姿が水面から消えた。
引き込まれたのではなかったようだった。自分から潜って
いったのだ。きれいな脚がちらりと水面に浮いて、すぐ消えた。
まだ岩場までかなりあった。看守は女の死を疑わなかったが、
大抵の場合起こる犠牲者のパニックが見られなかったことが
不満だった。第一、ここに及んで潜っていく女の気分が分から
なかった。もちろん、泳ぎ続けていても、女はたやすく死の
追跡者に食いつかれていただろう。水面下で今、何が起こって
いるのか、看守には想像もつかなかったが、やがておびただしい
血があたりに浮くだろうと思った。それでこわいもの見たさに男は
岩場を水際まで寄ってみた。すぐ近くに勢いよく女が浮かび上がり、
その伸ばした手で岩にすがりつこうとした。波に乗ったこともあった
が、腰あたりまで身体が飛び出した。しかし女は一旦貼り付いた
岩に腕をうまく保持出来ず、波にさらわれるかたちでまた水へ沈んで
いく。すぐそばに巨大な鱶のひれが見えた。男は恐さを忘れて再び
顔を水面に出した女の伸ばす腕を掴み、力まかせに引き上げた。

  乾いた岩に身を貼りつけるようにして這いつくばり、
女はしばらく絶え入らんばかりの荒い息を続けていた。素裸だった。
あとで看守は女から水中で鮫の攻撃をやりすごす
ために着衣を脱いで振り回したことを聞いた。その布のおかげで
女は咬まれることもなく逃れることが出来たのだった。
彼女の代わりに犠牲になり、ずたずたになった布はあとで
岩場近くで見つかり、看守が海から引き揚げた。死地をかろうじて
切り抜けた女は、たいした傷ではなかったが鮫に擦り寄られた
ためかあちこち血を噴いていたし、看守に後ろ手に縛り上げられる
間も抵抗が出来ないほど疲れ、気力を喪失していたようだった。
男は抜け目のない仕事熱心でもあったが、しかし目前のまだ濡れ
ずくして喘ぎ、立つこともできない裸の女を黙って眺めているような
我慢性もなかった。縛り上げられた姿のまま男に犯される間、
女は素直だったが、しきりに
「逃がして、見過ごして」
と男に懇願し続けた。この代償として、と言う意味かと看守は
思ったが、絶望の中での女の落ち着き様にも尋常でないものを感じた。
全裸のまま、なにも持たずここで放たれても、どうしてこれから
やっていく積もりなのか、半ば狂っているのかもしれないとすら思った。

「ここから森までは荒れ地やら沼やら、簡単な道のりじゃない。
岩場をゆくにせよ、砂檪の道をすすむにせよ、おまえのはだしの
あしうらは森に着くまでに血まみれになって、立っていることも
出来なくなるだろうよ。そんな荒れ地でもハイエナやら禿鷲などの
危険な野獣が無防備なおまえをつけねらうんだ。まして、その先の
密林や沼地の危険なことは話すまでもないことだし、監獄に戻って
おとなしく懲罰牢に入る方が、まだ生き抜ける可能性は高いはずだ。
生きておれば、また、たんと男を味わうことも出来るしな。」

  ことのあと、海から引き揚げて濡れたままの
ぼろぼろになった布を女の腰に巻いてやりながら、中年の好色な
看守は、彼女のなお生々しい股間に強く触って反応を引き出した。
この女、出来れば監獄へ連れ帰るまで他の捜索中の看守どもに
気付かれないようにしてやりたいが、それは無理だろう。

 

  真耶は昼を過ぎて所長の部屋に連れられてきた。
奇跡のようになお腰に巻き着いたままの傷んだ布が、一ケ月前に
自分の裁量でこの女に与えた新しい囚人服の残骸であることを
所長は信じられぬように思った。鮫から取り戻した時に、
既にまともに着れるものではなくなっていた制服だけれど、
その後に陸のけものたちから受けた仕打ちで、それは更に
ちぎれたり、裂かれたりした。わずかでも残ったことは幸運だった
のだろう。その極限まで肌を晒した姿は、脱出の行為で身体に
被った幾つもの傷を見せびらかすことにもなったが、それよりも、
彼女が捕らえられてから受けた災難のことに彼は関心が強かった。
脱出の失敗から被った気力のダメージに加え、気が変にならずに
ここまで歩いて来れただけでもこの女の強さが推し量られた。
砂などで汚れ、海のしおの匂いに汗の臭い、途方もない数の
看守どもに犯されたためだろう、なお興奮の覚めやらない躯から
立ち昇る熱気と生臭い気が所長の性感を刺激した。

「どうだ、少しはこたえたか、脱走など成功したためしがないんだ。
生きて戻れただけでも有り難く思え。」

「久しぶりに海に浸って、たいそう気分が良かったわ。
思いきり泳げたし。」

赤く血走った目でなお正面の男を睨む気力は
残っているようだった。
余り惨めだったら、シャワーでも浴びせて懐柔する余地も
あろうかと思って居た所長は気が抜けた。

「脱走者に課せられる懲罰を知らなかったとはいわさないぞ。
これを女に掛けるのはおまえが初めてなんだが、男でも半数が
立ち直れないほどの傷を心身にこうむる程だ。おまえには
掛けさせたくない。いまでこそ砂だらけ傷だらけのおまえの裸に
蟻のように男どもがまつわりつくほど魅力もあるのだろうが、
この刑を受けたあとは、たとえ狂わなくても、おまえの美貌は
見る影もなくなるだろう。それが俺にも辛いんだ。おまえが
折れてくれたら、脱走の件はなかったことにしてもいいんだぞ。」

「折れるというのは、貴方の情婦になること?それとも前の
監房に戻って淫売になること?。どちらもごめんだわ。」

「懲罰」が何を意味しているのか、真耶には分からなかった
ので、多少恐い気はしたが、すぐ殺されることはないだろうと
たかをくくっている。妻のエマが現れた。真耶を見て嫌悪を
あらわにした。看守たちの共有物になり終った真耶にエマは
もう未練はなかった。

「この女は、もう使い物にはならないよ。ここの皆に
迷惑を掛けるだけじゃないか。早く地下牢へ追い込むんだよ。」

妻の出過ぎた言動を叱って部屋から去らせたあと、所長は
二人の看守にも出るように言い、所長室は真耶と二人だけに
なった。しばらくの沈黙を経て、所長は立ち上がった。彼の
背は真耶と変わらなかった。ただがっしりとして、腹が出ていた。
真耶のそばに寄って囁くように言った。

「おまえが強がりを言っているのは分かっているんだ。
悪いようにはせん。二、三日間医務室で休むといい。おまえが
看守どもに身を任せても、心までは任せていないことを儂はよく
知っているし、気にいっている。おまえ次第だ、これからのことは。」

手をだしたのを除けて、真耶は言った。

「私の要求は決まっています。こんな不当な拘束をすぐ
やめること。日本領事館に連絡をつけてもらうことです。」

「もちろん拘束などしない。だが当面ここからは出られない
ことを承知して貰わなければならない。アンリにも言って……。」

後ろから抱きつこうとした男を避け、正面に目を合わせた
真耶は、唾を吐き掛けた。所長の顔に憤怒の表情が現れた。

「覚悟は出来ているんだな、ひと月の懲罰牢だ。生きて
この監獄から出られないかもしれないぞ。」

 
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