マヤ・パピヨン
                          (1)コネクション

 

  純白に塗られた三十トンのクルーザーがラ・グァイラのヨット溜りを離れた。
オーナーのモロー氏が舵を取っている。乗員は六名、モロー夫妻に
その妹夫婦であるガルシア夫妻、そして彼等とカラカスのホテルで知り合い、
このクルーズに誘われた一之木真耶と、ブラジルから一緒に旅をしている
アメリカ青年のジョージ。

  全長三十フイートの「ラ・パロマ」号は元々八人乗りなので
キャビンの広さに問題はないのだが、目下南米大陸一周の途上にあるという船の、
兄弟夫妻の居住空間に真耶たちが割り込んだ感じで、多少手狭な感は拭えない。
もっとも、真耶たちもずっと長居をする気はない。彼女らはほんの二、三日カリブ海
クルージングを楽しむつもりで船主の招待を受けたのだ。目的地などはない。気に
いらなければその日のうちに戻ってもよし、あちこちにある小島に
放り出してもらっても結構よ、とオーナーには言ってある。実際、真耶には
当面何の予定も計画もなかった。ジョージにはあるのかもしれないが。
二人とも二週間前に出会って以来深刻な話は全くしなかったし、
そんな「脳天気な」二人の雰囲気がコロンビアの大農園主である
気さくなモロー夫妻の気分に合ったのかもしれない。
長い黒髪を海風になびかせて、後尾で遠ざかる海岸線の眺めを
楽しんでいた真耶に、イタリア風美人のジャッキイ・ガルシア、船主の
弟の嫁が寄ってきた。

「マヤ、買ってきたんでしょ。水着に着替えなさいよ。」

すでにジャッキイは派手なビキニになって見事な肢体を陽光の下に晒して
いる。いつものラフなシャツブラウスに短いジーンパンツの真耶はスペイン語
にも不自由はない。軽くうなずきながら、ジョージは?と尋いた。

「彼、船の舵取りをテオにおそわってるわ。ともかく、船については
男たちに任せておくのね。」

「そして、私達は?」

首を傾けながらジャッキイに冗談めかして問いかけた真耶の笑顔を
ジャッキイは憎らしくも感じたけれど(この子に男たちを全部持っていかれそうだ)、
やはり反射的に笑顔しか浮かばなかった。歳はそれほど違わないのに、
東洋人は全てが華奢なつくりで、ずっと若々しく感じられることもあるのだ
ろうが、それだけではない女っぽさ、愛らしさ、女にすら逆らえない、そんな
魅力がマヤにはあった。

「決まってるじゃないの。私達は男をドライブするのよ。」

大げさでなく二人は楽しく笑って、階下のキャビンから顔を覗かせた
ベラに和やかな視線を移す。色が白く繊細な顔立ちのベラはジャッキイとは
対照的な印象で、しかしそれぞれ文句無しの美人だったし、同じ歳でもあり、
仲がよかった。にこにこと二人を眺め渡す。
「コーヒー、飲む?うちの農園の豆よ。」

「飲むわ!。」

ともかく真耶は彼等に何の遠慮もいらないことを感じていた。

 

  二時間ばかりの単調な航海のあと、前方にロス・ロケスの
島々が浮かび上がってきた。ここはベネズエラの領土内であり、
観光化されている島すらあって上陸は自由だ。すでに自動操舵に
切り替えて後甲板の女たちの話に加わっていたオーナーで船長の
モロー氏、ガストン・モロー、四十になったばかりで、父から相続した
コーヒー農園を経営しているというが、田舎の農園主とは思えない
スマートな紳士だ、が真耶を見据えて言った。きれいな入江を知って
いる。しばらくそこに泊めて釣りでもしよう。貴女がたは泳ぐのもいい。
真耶は愛想良くうなずきながらもベラが夫の話も上のそらで前方の
甲板で話し込んでいる男二人にずっと視線を引きつけられているのに
気付いていた。やはり若いアメリカ青年が気掛かりなのだ。
ジャッキイも似た様子だった。なるほど、当然の成り行きと言えば
そうには違いない。ヨットに乗り込んでしまえば狭い濃密な世界で、
お互い何もかもが開けっ広げにならざるをえない。既に一ケ月近く
この航海を続けている彼等夫婦がとっくにスワッピングをしていることも
想像がついたし、新入りにもそれを期待していることがうかがえる。
私たちがその程度の仲であることを彼等は見破っていて、この旅に
誘ったのだ。彼等の目が語っている。そう、こんな楽しみもいいものよ、
娯しみましょうよ。さあ、ジョージはどうする。まさか私に固執することも
ないだろうけれど。

 

  リオの美術館で出会った金髪碧眼のジョージに真耶は
新鮮なものを感じた。夫を失ってからの半年間で最もましな男を見た気分
だった。もっとも、その前夜のひどい経験がそれを増幅させていたことも
あったろう。それを承知で彼にもたれかかったのはやはり、女ひとり旅の
恐さが改めて身に沁みたからだ。

  真耶は泊まったホテルのボーイに襲われたのだった。いや、
ボーイを装った暴漢といったほうが正しいのかもしれない。この長い女
一人の世界放浪で、初めて遭遇した貞操の危機を、ともかく想定して
いたよりもよほど手ひどい目にあって、しかも自分でも歯がゆいほどに、
どうしようもなく、結局受け入れてしまったということのショックが、ひどい
自信喪失と自己嫌悪になって落ち込んでいた(怪我をしてでも、徹頭
徹尾、拒み通していたほうが良かったのだろうか)。ブラジルでの最初の
夜で、この地で予定していた旅行の計画が空しいもののようにも思えて、
これまで、ヨーロッパの都市ですら訪ったことのなかった美術館などへ、
柄にもなく入ってみようかという気になるような、自閉症的な気分にも
なっていたのだった。

  ジョージ、ジョージ・マクガイアは、MITの休学中の学生だと
自己紹介した。ブラジルは二回目で、街で見かけた真耶に惹かれて
美術館へ迷い込んだのだ、と正直だった。しかし話す内にもアメリカ人に
ありがちな軽薄さ、押し付けがましい親切さといったものがないことが分かった。
自信にあふれているようで、シャイな感じもあり、むしろ無口なほうだった。
沈黙の間も人を引きつける何かがあった。

  もちろんそれだけで一緒に旅をしようというような気分に
なれるものではないだろう。同性ならともかく、相手は異性であり、
真耶も余り安っぽい女には見られたくなかった。もちろん、ホテルで
強姦された、などとぐちをいうことは抑えていた。そんなことが言える
ようになったのは、ベッドを共にしてからも、ずいぶん後になってからだった。

  しかし男の話す計画が真耶を捉らえた。明日からアマゾンに
入る、といっても例のベレーンからマナウスへ上る巡航船に乗るだけだが。
それを聞いて彼女は自分を押さえることが出来なかった。実に彼女も
それを予定していて、しかし一人では何となく行きにくくなっていたのだった。
空路マナウスに寄って、それでお茶を濁しておこうか。

  しかしマッチョとはお世辞にも言えない青年ではあったが、
婦人警官として同期の中では一番上背があった真耶から頭ひとつ
抜いた若者と一緒になると、一人のときにはちゅうちょした怪しい
裏町へでも臆せず入り込んでいけるし、若い女の行動範囲は俄然
広がる楽しさがあって、やはり男あっての女なのかと、肩ひじ張って
生きてきたこの半年がおかしくも思えてくるのだった。

 

  ジョージと一緒になってからは、費用も相対的に
かからなくなった。とはいっても、男に払わせたのではなかった。
休学生の身分であり、真耶より格段に金を持たなかった。実に
吝嗇だった。宿も真耶一人の時より悪くなった。しかも一人だけの
部屋で、真耶は街娼のように後で部屋へもぐり込むことで宿賃を
浮かした。当然のように割り勘だったし、代わりに交替で床に寝る
ことになったが、やがて狭いベッドで朝まで抱き合って眠ることが
普通になった。ジョージは元々淡泊な方らしく、そんな夜にも
むさぼることはなく、女が消極的な時は要求しないままで押さえられる
ようだった。だからベレンを出発点とした一週間のアマゾン川の船旅で、
一人ずつハンモックが与えられ、ベッド代わりになったときは男の方でも、
むしろほっとした様子があったが。

 

  多くもなかった真耶の荷物がトラブルに巻き込まれて
失われてからは、これまでにも増して彼女は衣服やみだしなみに
こだわらなくなっていたし、それだけに(金には不自由しなかったけれど)
真耶はジョージに頼る面が多くなった。例えばカラカスで久しぶりに
最高級のホテルのツインを取った時も、ジョージがいなかったら、
真耶は商売女と間違えられて、ロビーに入ることすら難しかったかも
しれない。その一夜を最後に、二人は別々のルートを辿ろうという奢り
だったのだけれど、また思いがけない出会いがそれを御破算にしたのだった。

  夕食時に、見るからにリッチな隣の席のカップル、
ベラとガストンのモロー夫妻が声を掛けたのだ。すぐ二組のカップルは
打ち解け、夫妻が提案した豪華ヨットでのカリブ海クルージングを
一緒にという誘いに一もなく参ってしまったのは真耶だったが、
ジョージの顔色如何で彼女は我慢する積もりだった。意外にも
ジョージは、悪くないという表情をしたのだ。

 

  「やつら、コネクションなんだ。」

ひと泳ぎして浜に上がってきたジョージがパイプチェアに
くつろぐ真耶に耳打ちした。

「あら、何の証拠があってそんなことをいうの。悪いわ、
コロンビア人の金持ちは皆麻薬を扱っているなんて、偏見よ。」

そんなやばい一味にどうして慎重なジョージがここまで
乗ってきたのだろう。真耶には寝耳に水の言葉だった。
単に好奇心だけの行動だったのか。昨夜は何も言わなかった
のに。ともかく真耶は久しぶりの海と水遊びで満ち足りた気分
だったし、そんな気分を汚されたようで不愉快だった。もうジャッ
キイたちは全裸になって遠くの水際に寝そべっている。船に
残っているのはひげのガルシア、テオ・ガルシアだけだ。ガストンは
向こうの岩礁で釣り糸を垂れている。

「キャビンにある機械、ソニイのオゥデオだと言うんだが、
明らかに強力な無線装置だった。あんなものはお遊びの
クルーザーには必要ないし、第一、嘘をつくのが怪しい。
もっとも、この航海でヤクの受け渡しをするのかどうかは分からないけどね。」

「そうよ、いずれ彼等は、ここではただ、楽しみたいだけなのよ。」

ジョージは珍しく軽蔑の視線を真耶に向け、カラカスのデパートで
今朝急いで買った、その黒いビキニで強調された彼女のスレンダーな
裸体をじろじろ眺めながら言った。

「そして、君もそうなんだな。」

「当然よ!」

まだ私に未練があるの?と斬ろうとして真耶は言い留まった。
ジョージは後悔しているのだ。自分の軽薄さが不愉快なのだ。こうなると女の方が度胸が座ってしまうものなのだろう。

「貴方も楽しめばいいのよ。ベラも、ジャッキイも貴方ばっかり
見てたわ。期待されてるのよ、今夜は。」

「あんな女と寝る位なら、まだ『ひげ』と寝る方がましさ。」

「あきれた。貴方、ホモだったの。いいひとよ、彼女たち。
私には男よりいいわ。さっぱりしてて。」

二十六のMITの院生はすこしむくれて、また海へ入っていった。

  どうしてジョージとテオが気が合うのだろうと真耶は
思ってみる。英語に不自由がないということはあるだろう。ガストンも
南米人には珍しく知的な人間だが、テオは更に頭がきれる印象だ。
コネクションでは幹部なのだろうか。真耶に向けたとろけるような
笑顔では女遊びにも堪能な感じではあるが。二人はどんな話を
交わしているのだろう。

 

  夕刻近く、船からバーベキュウの器具などを降ろして
浜でパーティが始まった。入江は小高い岩で三方囲まれており、
どれ程騒いでも、島に相当数住むという漁民たちに気を遣うことは
なかった。月もない夜で、船からのライト二本が浜の宴の場を
照らしていたから暗くはなかったが、それだけ周囲の闇に注意が
届かなかった。発電機のエンジン音も相まって、だから、賊が
周囲を取り巻いたことに気付くのが遅れたし、ましてその賊どもが
どこから現れたのか、後々まで真耶にも分からずじまいだった。

 

  最初の二発の銃声がクラッカーだと思うほど真耶も
酔ってはいなかったけれど、余りに唐突だったので、彼女を
含めて誰も茫然と立ちすくむばかりで、適切な行動を取らなかった。
結局その二発でテオとガストンが撃たれ、殆ど即死したようだった。
女たちの悲鳴が途中で途切れる。再び銃声がして今度は船からの
ライトが壊され、あたりが真っ暗になった。真耶はわけが分からない
ままその場につっぷした。間を置かず、何者かにその上に乗り
かかられ、体を砂から剥がすように仰向けに転がされる。
殆ど身を接するほどに近寄られていたのだ。逃げ出す余裕は
全くなかったし、こちらの気付かない内に目標を定められて
飛びかかられた、そんな印象だった。真耶も最初は抵抗したけれど、
大きな図体の相手の力には抗うべくもなく、けがをしても詰まらないと
思う気持ちで、あがくのをやめた。リオのホテルでの夜を思い出した。
黒い靴下のようなものを被っている相手の顔を目近かににらんでやる。
白人ではない。

「ほう、観念したか。よし、いい目をさせてやる。」


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(2)ゴムボート へ続く 

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