麻薬王の贄

(5) 有刺鉄線

  マヤの小さい尻が辛うじて押し込めるだけの大きさの排便のための縦穴へ身を沈め、最初のほぼ直角に穿たれた横穴へその細身を折り曲げ、潜り込ませることが彼女の最初の辛い作業になった。そのあとも身を裏返し、肩を外して全身を伸ばし、仰臥した姿のまま、マヤは無数の蠕虫どものうごめきさわぐ泥を押し分け、半ば身を沈め浸し、巨大ないもむしのように狭い暗渠の中を身もだえしつつ擦り動いていった。
男に貰ったシャツはぴったりしたものでもなかったし、やがて剥けて首に絡まり、むしろ呼吸を害したので脱げるままにさせて、腕に巻いて確保したものの、ともかく元の全裸になってしまった。傷つき腫れた乳房が狭い壁を打ち、潰れる時のひどい痛みも、繰り返されるたびに痺れるような感覚へ薄れていった。次第に汚泥が深くなり、水面が暗渠を満たすほどになって、マヤの恐怖は絶望に変わった。
今、アマゾンは雨季の終わりだった。地下水位があがっているのだ。多分、2番目にここへ入った男は泥をのどに詰めて窒息したか、あるいは溺死したのだろう。穴の上辺のわずかな隙間で辛うじて息を継ぎつつ、これ以上進むことは出来ないと思ったマヤは、戻ろうかと考えた。しかし、こんな頭から足先まで糞便と汚泥にまみれ尽くした私を、彼らがまた受け入れてくれるだろうか。いずれ死ぬことが確かなら、辛くはあっても前へ進んで死ぬほうが後悔は少ないだろう。最も狭い部分は過ぎていたから、マヤは肩の関節を苦労してはめ戻し、腕に力が入れられるようにした。大きく息を吸ってから泥に顔を沈め、未知の前方へもぐり進んでいった。全身をねじのようにひねり回し、手指を壁にたてて懸命に泥をかき分けて距離を稼いだ。途中で人骨らしいものに当たり、手足を絡められたが夢中で押しのけ、蹴りやった。息が続かずに意識が薄れる中で、足先が暗渠を抜け出たという感覚を得た。泥の中ではあったけれど周囲の空間が広がり、全身が自由になった。激しく暴れ、上をめざし、顔が空気に触れた。息が出来た!マヤは生きているという喜びにむせいだ。
 しかし、喜ぶのは早すぎたようだった。なおマヤの前には闇が深かったし、深い泥沼のような場所で、首だけ出したマヤの足下はおぼつかず、そこはやはり狭い、閉じられた空間だった。遙かな頭上に見事な星空を見たときのマヤの感激は言葉に尽くせないほどだったけれど、この深い井戸のような場所からどうしたら地上へ這い上がることが出来るのか。マヤは水とも泥ともつかない、自分がどっぷりつかっているこの場所が実はいやらしいうじ虫と吸血のいきものどもがうようよする棲み処で、どっぷりと沈めている自分の裸の躯のありとあらゆるところに、あたりかまわず、泥から出ている首筋やら頬のあたりまでびっしりと食らいついてじくじくと刺し、ずくりと噛みついて彼女の肉を喰い、赤い血を吸い始めていることをようやく知った。それはあの牢獄で猛毒の蠍虫どもにたかられ、刺し咬まれて苦しんだ経験などとても及ばないほどの圧倒的な数の敵から受けるおぞましい恐怖と不快感、狂わしいほどの痛痒感だった。しかも、そこは彼女の細い体を黙って浮かせるものではなく、絶えず四肢をばたつかせていなければすぐにずぶずぶと沈み込んでしまう底なしの泥沼なのだ。
 このままではいずれ狂うまでに体力を尽くし、血を失って死ぬのは確実だった。マヤは周囲の垂直の壁へ身を寄せ、必死にまさぐり、指と爪をたてて這い上がろうと焦った。上半身までを抜いては何度となく途中で滑落し、深みに沈んでは夢中で浮き上がった。蛆虫まみれの顔と体を掻きむしって絶望に叫び、呻いた。何度かの挑戦でようやく全身を泥から抜くことに成功したマヤは、ぼろぼろと崩れ、しかも凹凸のない岩壁に土蜘蛛のようにひたと貼り付き、ひどい傷に腫れあがった乳房を壁に押しひしぐ苦痛に耐えて、必死に滑落の恐怖を支えにして這い上がっていった。汚泥が顔を覆って目をひらくことが出来なかった。腹やら太腿に吸い付いた巨大で長い蛭やら蠕虫類、傷口に食いついて肉にもぐり込んでくるウジ虫どもなど夥しい軟体のいきものは岩肌にこすりつけることで潰し、わずかでも躯から剥がし除くことがマヤのささやかな幸福になったけれど、もちろん手指は使えず、殆どの不快に耐え続けねばならなかった。なお背中やら尻の穴などに食いついて血を啜る悪どいいきものどもは圧倒的な数で、マヤの危険な登攀作業への集中力を削ぎ、苦しめた。

 ようやくマヤが巨大な陥穽の上辺へ身をせりあげ、這い出て地上の草むらの中へ転がり込み、地面に背中をこすりつけ、転がり回って汚泥をそれらに擦りつけて落とし、全身に食らいついたいやらしいいきものたちを無我夢中で潰し、剥がし、掻きむしって目を開き、人心地ついた時、あたりはようやく明るみはじめていた。全身のたまらない痛痒感は薄れつつあったけれど、マヤが危機から逃れたわけではなかった。ここがどこなのか、麻薬王の手のうちからどれだけ離れたのか。マヤには何も分からなかった。しかし、仰のいて何日ぶりかの外界のすずやかな空気を胸いっぱいに吸う快感にしばらくマヤは酔った。ふと男からもらったシャツを失っていることに気が付いて落胆したけれど、命を得ただけでもよかったと思いなおした。ひどい渇きから近くの草を引きちぎって噛みしめ、青臭い液を味わいつつ草むらをすかしてあたりの様子を窺う。草根を分けて何者かが近づいてきた。大きな狩猟犬だった。マヤは反射的に立ち上がった。不用意に近づいた敵はそれでむしろひるみ、一瞬動きを止めた。すぐ飛びかかってきたその頭をマヤの鋭く振り抜いた右足の甲が直撃した。犬は短い悲鳴をあげて昏倒し、それにマヤは飛びつき押さえ込んだ。啼き声を上げさせないままに胸を押し潰し、絶命させた。マヤの凄まじい全身の汚れが敵の嗅覚力を狂わせたのだろうか。普通ならとてもかなわない、成人の男を一気に咬み伏せる獰猛なボクサー犬だった。幸運もあったけれど、疲れを感じさせないマヤの得意技、キックボクシングの冴えだった。もちろん彼女は空手の免状も持っている。

 危機は去っていない。再び草むらにうずくまったマヤの五感にはひしひしと自分に迫ってくる獣とも、人間ともつかない敵意に満ちた気配が捉えられている。逃げなければ。しかし、どこへ?次第に目が慣れて、ここが麻薬王の城をとりまく深い密林との間に設けられた草深い地帯であることをマヤは知った。コンクリート製の迷彩色に塗られた陰気な低い「城」が背後にあり、密林はすぐ目前にあったけれど、その中間に霞みのようによこたわる人工の障壁の存在が彼女にも容易でないことに気づく。荒い有刺鉄線の巻束がうずたかく前後にも幾重にも積み重なっている。それらが何のための障碍なのか、脱走者への配慮はもちろん、密林からの危険な侵入者ども、ジャガーにも、オンサーにもそれは飛び越えることの不可能なだけの幅と高さ、厚みがあるのは当然だった。どこかにその障壁の切れ目はないだろうか。マヤは草むらの中を中腰で這い進みながら抜け道を探してしばらく進んだ。
 しかし、ようやく二頭の凶暴なマスチフが自分を見つけて挟み撃ちにと駆け寄ってくるのを見て、マヤはここで勝ち目の薄い闘いをするよりはと、苦い決断をした。もちろんハイ・ジャンプにも幅跳びにも一時州の学生記録を持っていたマヤには、あるいはその危険な障碍が飛び越せるかも、といったかすかな期待があったのかもしれない。それはおおいなる錯覚だったのだが。
 深い草むらを跳ねるように走り出したマヤに二頭のけだものが唸り声をあげて迫った。マヤが正面の障壁へ絶望的な大ジャンプを敢行したと同時に跳んだけものの一頭がひとつになり、二つの躯は絡み合って有刺鉄線の堆積の中へもぐり込むようにして落ちた。その右の太腿に大型犬の強力な顎と鋭い牙を噛みつかせたまま、無数の鋼針のとげとワイヤーを素裸の身のそこかしこにめりこませ、絡みつかせたまま、マヤは、しかししばらくは出血と苦痛に耐えてとりあえず生死にかかわるひどい出血を強いている敵の牙から逃れるため、生き抜くための絶望的なあがきを続けていた。長い髪は泥で固まり、身体に糊着していたから、ワイヤーに絡まることがなかったのがわずかな救いだった。ともかく身近なワイヤーを使って自分を苦しめているマスチフの首を巻き、仕留めた。しかし、自分の躯に複雑に絡みつき、深く食い込んだバーブワイヤーから逃れるための辛い作業の時間を稼ぐ迄に、更なる敵が来た。自身では飛び込む勇気のない一頭が激しく吠え、呻り続けるその騒ぎを聞きつけて近づいた城の警備の兵士たちには、有刺鉄線の海の、地獄のさ中で動かない血まみれの二つのいきものは、どれも生きていようとは思えない、惨たらしい姿だった。しかし中ではむしろひどい傷の目立つ全裸の女が、ずたずたになった全身の傷の苦痛と無念さに呻き、唸りつつ、なおぎらぎらした赤い目を開いて彼らを驚かしたのだったが。

    「麻薬王の贄」最終回へ続く

この物語は完全なフィクションです。



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