人魚の小屋掛(にんぎょのこやがけ)

 

 

  暇な田舎役場の文書掛で、三十を過ぎたというのにまだ独り身の
蕪崎(かぶらざき)常造は最近町内の縁日に出来た小屋掛けの見せ物に、
われながらあさましいと思うほどにいれこんでしまった。

  その縁日の中心にある豊玉神社、さほど由緒のある社(やしろ)でもなく、
以前は年一度の庚申祭もさみしいものだったけれど、誰が言い出したものか
十年ほど前から安産にあらたかだという評判が立って、それからは一年を通じて
信者の往き来が絶えなくなった。神社の小さな祠殿の杜に通じる参道は、
大きくはないものゝ水量がたっぷりある堀割りのような川に沿っていて、
庚申祭にはその道すじを中心にして様々な物売りの店やらテント小屋が
軒を並べることになり、年ごとに盛大になってきた。

  その年の祭りは日露戦役の勝利記念というわけもあってか
これまでになく賑わい、道すがらの沢山の物売りや占いなどに混じって
田舎回りの一座や見せ物なども幾つかやって来、芝居など見たこともなかった
小さな町の若い男女が毎日話題にして有頂天になるありさまだった。

  そんな彼等彼女たちの醸し出す賑々しい祭りの雰囲気には
どうも入り込めないまま疎遠に感じていた常造だったけれど、
ちょっとしたきっかけからとはいえ、祭りの中の、ひとつの小屋に
彼が妙にこころひかれることになったのも、もともとそういったものが
彼自身嫌いでもなかったということかもしれない。
もっとも、それは陰気な常造が気にいっただけに、賑々しい祭りの
雰囲気とは随分かけ離れた、際ものっぽい見せ物ではあった。

 

  賑やかな祭りの通りへ、たまたま親戚の不幸を見舞ったあとの
気晴らしにぶらりと寄ってみた常造は、いつもはとんと歩くこともなかったその通り
の余りの変わり様と賑やかさに驚かされた。しばらくは軽い目まいのような快い
放心状態に酔いながら、さて、以前母に従って此処を歩いたのはいつ頃のこと
だったかと首をひねった。そうだ、離れて生まれた末の弟がまだ母のおなかに
いたころだから、もう十年は経つ……。――さほど広くもない町ではあったけれど、
彼自身普段は余り所要もなく出歩くことがなかったし、まず、その杜へ、常造が
参る理由はなかった。母はその弟を生んでまもなく死んだ――。

 

  豊玉の社近くは、常造にはなにもかもが目新しかったし、
しかも縁日だった。広くもない道の両側に押し合うようにして軒を接した
射的屋やら、玩具屋やら、いか焼き、今川焼きなど、和やかな喧噪や
懐かしくも垂涎を誘う甘ったるい匂い、それに硝煙とアセチリンのつんと
鼻をつく臭気などに気持ちをたかぶらせながら、しかし子供達に立ちまじって
柄付きの飴などを買うのも気恥ずかしく、また卸したての紋付きを汚したくない
理由もあって、常造は買い食いの誘惑を我慢しつつ、
ふところに片手を突っ込んだまま左右の店先を覗きのぞきぶらぶら歩いていたが、
やがて、それらの小さな露店の並ぶ間に、ひときわ間口の
広い小屋掛けがひとだかりを集めているのに目を留めた。
痩せてひょろりと背の高い香具師の陰気な口上を聞くともなしに聞いている。

  「……何の前世の因果か、美しい女人の容姿を持って生を受けながら、
冷たい水の底をついの棲かとして、常に息をくぐめて生きていなければならぬ。
さあ、皆のかた知りおるか、人魚はいつも水の底に棲んでひとの
何倍もの生を生き続けることを。それはこうして妖しくも美事な女が、
多くの陸(おか)のおとこどもの想いを拒んで冷たく水にひそむ、
このいきものの魔性に天罰が当たったのでもあろうか。誰も知らぬ、
誰もこのいきものの素姓を知らぬ。じゃが、一目見ればひとは一生忘れられぬ。
魔性のさかなの所以じゃ。怖れるおかたは見ぬほうがよい。
だが滅多に見られぬものじゃよ。これも唐わたりや、オランダから来たなどという
まがいものではない。つい先のやよいの朔日に、日本の南の果ての島の、
名もない浜の老いた聾唖の漁師が仕掛けた、五尺の流し網にかかったものじゃ。
まだ若くていきもいいが、長旅に水が変わって往時ほどでもない。
見るならいまのうちじゃで……。」

  決して流暢というのではないその、自分よりふたまわりは歳たけた
香具師の話す内容にいささか興味を覚えた常造は、香具師の振り上げた赤い漆の
指し棒が示す頭上の小屋掛け看板を初めて眺めることになった。
天幕のキャンバス地に直接岩絵の具で描いたらしい半女身半魚の
等身大近い極彩色の絵は、常造自身もおぼろげながら先入感として持っている
その想像上のいきものを具体的に見せて、何も付け加えることはなかった。
しかも顔はいわゆる錦絵風の卵形に引き目かぎ鼻で、上半身裸の図は
胸のふくらみを予兆しつつも手のひらと黒髪で不自然に隠されており、
ただ身長に近いばかりに長く、豊かな髪が人魚の女であることを強調しているのみで、
よほどこの絵師は当局の検閲を恐れたのだろうかと、役人のはしくれである常造は
苦笑したものだった。この絵は今の香具師の口上の半分もひとを惹きつける
魅力はないようだ。

  十人ばかり見物の集まったのを見計らって、
男はくぐりの垂れ幕を開けて客を中へ誘い入れた。
入口に別の若い男がいて木戸銭を要求する。天井の竹の梁から
垂れたカンテラの光にぼんやりと浮かび上がった小屋の中は、
ただ目の前の川端に向かうわずかな足場に桟敷の積もりか二列の
木の長椅子がおいてあるだけで、その足元三尺
ばかり下、巧妙に川の緩い流れ、畳二、三帖あまりを堰きくぎって
小屋の暗い空間の一部に取り込んであるのがこの見せ物のいわば舞台なのだった。
水面はカンテラの灯りをにぶく反射して、しかし外からの日の光が屈折しながら
水底の仕切りから漏れ入り、ほのかに沸き上がってくるような風情はこの小屋の
あやしい雰囲気を更に盛り上げていた。
客はしきりにその水面を覗き込み、何もいないことを不満げに言い交わした。
なる程、その底の見えない“いけす?は常造には何ものか潜んでいるようでもあり、
いないようでもあり、さてはあの陰気な香具師の口に乗せられたか、と安くもなかった
木戸銭に思いを戻したとき、先の長身の口上がその暗い桟敷の後ろから再び始まった。

「さあみんな、よく御覧。紛うかたなき美形の女人だ。だが人間ではない、
人間が想いを寄せても決して成就することはない。人魚は異なる世界のいきものだ。
水がなくては生きられない。おとこの胸の中では生きられない。さあ、いとしい人魚よ、
出ておいで。そのきれいな髪を見せておくれ。
その丸い肩や白い背中を水の上へ出しておくれ。」

長身の男はいつのまにか中央の桟敷の間から水際へ進んで水面を覗き込んでいた。
その長い漆の棒を水につけて二、三度叩いた。それが合図ででもあったのか、
その薄暗いいけすの水はゆったりと一度左右にゆらめき、次いで中央が膨らんだ。
常造が一心に見詰めている水面のわずかな下をその時、確かに何か白い
ほっそりしたものが動いていったのだった。常造はそれを見たというのでなく、
何か幻想のようにして感じていた。

  一同が同時に小さな声をあげ、同じように身を乗り出して溜め息をついた。
それは一度右から左へ進み、すぐくるりと反転して逆に泳ぎ戻った。今度は常造も
はっきりと見た。顔は見せなかったがなるほど長い黒髪が水にたゆたい、
乱れて白い背中を網目様に覆った。戻る人魚は半ば水から身体を出していたのだ。
それで終わりだった。顔を水面にあげることなく、人魚はそのまま再び水中へ沈んでいった。
細腰に回した一条の太い麻縄が目を射て、香具師の後口上も耳に入らないほど、
常造はぼおっとしていた。

 

  暇な職場を途中で抜けて、日を置かず常造は小屋へ通った。
多いときは十五人余り、少ないときも五人を下らなかった。もっとも、なじみになった
長身の香具師は客が集まらないときは入口を開けるのをためらい、だらだらと時間を
稼いだが、常連の常造がいる時は三人でも始めることがあった。何度見ても、いつも
その瞬間を待つ常造の胸はあやしく騒ぐのだった。香具師の口上はなじみが居ようが
いまいが余り変わり映えせず、常造はすぐ一句残らず覚えてしまった。

 

  しかし、人魚はまた別だった。何度見ても印象は新鮮だった。
初めて見た時に常造の心に強く残った腰の麻縄は、多分その一方の端が桟敷の隅の
鉄の“めがねくい?に括りつけられており、その縄が人魚の泳ぎの邪魔にはならないほど
充分長いものではあっても、口上がその縄を棒で叩いて合図を送ったり、人魚の泳ぎに
対応して揺れることもあって、やはりそれは人魚の逃亡を防ぐためのものに違いないと
常造は暗く推量するのだった。その想像は何故かまた、常造に胸を締めつけられるような
辛い快楽をも誘い込んだ。

  人魚はいつも同じ泳ぎをするとは限らなかった。深く過ぎることもあり、
驚くほど全身を水面に見せることもあった。見物の後頭部から来るカンテラの灯火は乏しく、
水の反射にも妨げられて手に取るようにと言う具合にはいかなかったが、
水中を進む人魚は人間であることは明らかで、腰に太い麻縄を巻きつかせただけの
素裸であった。しかし、そのことがかえって、それが常造に、人である筈はないという
非現実感を抱かせる効果を醗したのは奇妙だった。つまり、常造はそれを性の対象として
見たのではなく、最初からふしぎな、妖しいばかりに美しいいきものとして心惹かれたのだ。

 

  人魚は、時には水中から横顔をちらりと見せ、まれに真っ直ぐ睨むこともあり、
常造はその強い視線を感じてたじろぐことすらあった。何を見るのだろうか、人魚の目は。
水の中から自分の躯を灼くように見詰める多くの異人の目を眺め返して快いものを
感じるのだろうか。何度か見るうちに、当然ながらそれは人間の、華奢な手足と
固い乳房も備わった若い女であることを常造に納得させていったけれど、
それでかえって男の中の不思議はふとっていった。

 

  常造は暇な職務のあいだ、このあやしい小屋掛けの謎を解くのに
頭の中を一杯にしている。女が人魚などでない、人間であることは確かにせよ、
それなら、必ずどこかで息を継いでいるに違いないのだ。既に彼は五度も木戸銭を
払っていたし、小屋の周囲を、あるときは川の対岸から子細にその意外にこじんまりとした
天幕の全景を眺めてもいた。見せ物のひと区切りが終わるたびにその天幕の外の川面へ、
目立たぬように、人魚が息を継ぎに顔を覗かせることでもあろうかと、長い間対岸のほとりに
座り込んでいたこともあった。人通りの多い宮参道と異なって、川の対岸は常造のそんな姿を
気に留めるようなひとの動きも少なく、ひとしきりのどかな川の流れと、水をずっくり吸って
色の変わった天幕の裾のあたりに何の異様の姿も見えないことを確かめて、
奇妙に得心したような気分で常造が立ち上がったのは、座り込んでから
小一時間も経った夕刻近い頃だった。

  幕が二重になっているのかもしれないと、常造は目分量で川への
小屋の張り出し、外の小屋幅と内のりとの差があるかどうかを量ってもみた。
幾分あいまいなところはあったが常造自身の答えは否であった。大体、
小屋の内側の水槽部分は天幕の水底との隙間の光の漏れ込みはあっても、
隙間以上のものではなく、その光自体が水槽の密室性を証明しているようなもの
だったのだ。ともかく、人魚は水槽の中へ、どこからともなく現れるのが常造には
奇妙だった。人魚はいつのまにかそこに在り、そして唐突に姿をくらましていくのだ。
常造は悩み、そしてまた通った。

  「世の中は、不思議なことばかりだ。あやしいことばかりだ。
堪能されたか、お旦那。美しい水のいきもののひと泳ぎの姿を……。」

まっ白い尻を瞬間浮かせて暗い水中へ消えていった人魚の、目の奥にこびりついた
残像を反芻しながら、なお去りかねて立ちすくむ常造へ、その耳に馴染んだ後口上を
もう一度ささやいて、長身の香具師は彼に、外へ退出することを言外ににじませた。

「どんな仕掛けだ。いつ浮いてくるんだ、息を継ぎに。え?」

上目づかいに常造は、男へさりげなく尋いた。誰も小屋内には残っていなかった。
ただ若い木戸銭の守り役が所在無く離れて立っていた。

「お客さん、人魚ですよ。息を継ぐことはないのです、いつまで見ても一緒ですよ。
何なら次の客がくるまでここで待たれてもいいのですよ。どうぞ……。」

  老いの影が忍びよる男の表情には何の媚びも見当らなかった。
若い頃はさぞかし遊蕩にもふけったのだろうか。その冷たく整った顔は凄みすら感じられ、
常造は一種の敗北感にうちひしがれながらも、もうしばらくここにいて人魚の
不思議の鼻を明かしてやりたい気持ちに執着していた。もっとも、彼の実人生にこれまで
何の奇跡も起こらなかったように、どうせここでいつまで水面を見ていても、
息を切らした妖艶な女の人魚が浮かび上がって自分に微笑を見せることなどあるはずもない、
と彼自身も思ってはいたのだが、香具師の突き放したような意外な言葉に、急に常造は
自分のまぬけさ加減を思い知らされたように感じた。諦めて出るのも悔しく、
といってこのままじっと暗いカンテラの灯りの中で立ち尽くすのも気づまりで、
常造は自らの毒の内に窒息しそうな辛さをじりじり味わっていた。

 

  雨が続いて、縁日はとっくに日程を終えていた。ほとんどの露店が
姿を消し、ずるずると未練がましく残っていた幾つかの買い食いの店もいつの間にか
引っ越してしまった。見せ物小屋が増水で流されたという噂を常造が聞いたのは
そんな雨あがりの午後だった。食傷したというわけではなかった。
香具師とのやりとりのあと、多少気まずさもあって足が遠のいていたのだ。
仕事もそこそこに常造は川ぞいの道へ急いだ。ぬかるみの残る、
社殿に向かう馴染みの場所にはつい十日ばかり前の賑わいは夢のように消え、
狭い通りにあれだけのものが並んでいたことが信じられないほどにひなめいた
静かなたたずまいを取り戻して、もちろん、あのあやしげな小屋掛けの跡も、
想像するのが苦しいほどに平凡な川端に戻っていた。

  なるほど、川は雨のあとでかなりの水量になっている。あるいは、
水に浸かった天幕の布が流されたということもあったのかもしれない。しかし、
役場の若い小者が面白そうに言っていたように、人魚が増水した川水に紛れて
姿をくらましたというようなことは有り得ないことだった。あの抜け目のない香具師が
そんな失態をおかす筈はない。常造が瞞しおおされたように、哀れな人魚も
やはりあの冷ややかな、人間の温もりの感じられない初老の香具師に瞞され、
腰の綱をしっかり握られて今日もまたどこかの縁日の見せ物にされているのに違いない。

  常造はそんなことも思いつつ、かつて人魚の見せ物小屋が掛っていた
あたりの川端に立っていた。何に注目するでもなく、ただ傍目にはぼんやりと
立ちすくんでいたその時、不意に、ぼちゃんと何かが水へ落ちる音を聞いて、
なにげなく水面を見た彼の目には小さな赤銅色の、艶やかな磁器のような単色の蛙が
懸命に水を蹴り、水を分けて前方へ泳ぎ進んでいくのが見えた。

  常造がふと気に懸ったことは、その蛙がどこから現れて
水に落ち込んだかということだった。足元からではなかった。蛙が水面までの
三尺以上ある落差を一度に落ちた気配はなかった。垂直になった川土手の際に
しゃがみこんだ常造は、多少の危険を冒して川面に身を乗り出し、土手ののりを
眺めおろし、そこに今まで気づかなかった大きな矩形の窪みのあるのを知った。

  下水口だった。なかなか豊かな水がそこから流れ出て、
滔々と川面へ注ぎ込んでいる。常造が今までその存在に気づかなかったのは、
大きな御影石をふんだんに使って切り立てた川の垣提のなめらかな仕上がりと、
その水道の底が川面に近いために、流れ出た水がそのわずかな落差で音もたてず
川へ注いでいたためだろう。蛙はその暗渠から現れ、川へ落ちたものらしかった。

 

  常造の心に、ひたとある思いが兆した。
あの人魚のからくりを見抜いたような気がしたのだ。
つまり、このようなことだった。
女は見せ物の始まる直前にこの暗渠に身をひそませており、
終わった後再びこの中へ潜り込んだのだ。
穴の入口は見物には完全な死角になっていたが、
より万全を期するためにそこには黒い布などが垂らせてあったのかもしれぬ。
一旦深く水へ沈んだ女はそのまま布をくぐってこの穴へ入り、
暗渠の空間へ顔をあげて息を継いでいたのだろう。
ただひとつの難点は、川と暗渠とをつなぐ部分が薄い小滝の
水だけであることだったが、恐らく、水底に達する小屋の天幕が暗渠からの
水を貯えて水かさも多くなり、その出口は川面と同じかそれ以上になっていたのだろう。
そういえば、おぼつかない記憶の中ではあったが、常造には、
小屋の中で見たいけすの水は現在の川面よりもよほど足元に近かったようにも
思えるのだ。女が見物に気づかれずに暗渠へもぐり込むだけの水かさが
そこにはあったに違いない。
思いもかけない蛙の出現で懸案の謎が解けたことが
常造にはおかしく、また無性に嬉しかった。

「そうだ、違いない!」

常造の子供っぽい快哉の思いが不本意に声音になって漏れ、
そばを通りかかった社宮帰りの若い夫婦の、妙にくたびれた感のある妊婦が
戸惑い顔で振り返った。

 

 

                                                       

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