(五)死闘

 

  彼はもはや黒蓮の幻想を疑ってはいなかったが、強力な、恐れを知らぬベリの海賊達がなぜこのようにあっけなくも虐殺されてしまったのか、そして自分だけが、なぜこんなに長い間殺されずにいるのか、コナンには理解出来なかった。河を治めているよこしまな存在が苦痛と恐れのうちに彼を責めさいなまんとしてひとり生かしておこうとしているのだろうか。更に、ベリとの愛を妬んで引き裂こうとしての所業なのか。何にしても人間を越えた知性の存在を認めるならば、どのような悪辣なトリックが用意されているか分かったものではなかった。考え様によってはあの鋭敏で理性に勝ったベリを宝石のとりこにさせたのも奴等のしわざかもしれぬとすらコナンは思うのだった。

  河辺の闘いではこの船すら有効な砦とはなり得ないようだった。それにこの波止場は守るには死角が多すぎた。コナンは武器を持つと船を降り、例のピラミッドへ向かった。月が昇り、キンメリア人の角のついた兜を炎のように輝かせた。コナンが今、腰を降ろしたピラミッドは朝、彼等が登った方向の反対側、つまり密林の方角から幅の広い階段が設けられてあった。昔、祭司達はここからどのような光景を見ていたのだろうか。コナンは束の間見た幻影を反芻しつつ密林の暗黒の中からの現実のサインを読み取っていた。

  時折聞こえたあの不気味な笑い声めいた啼き声も今は聞かれず、再び沈黙が密林を支配していた。けれども、不意に夜は張りつめ、密林に怪しいいきもののうごめく力がみなぎった。コナンは本能的に剣の鞘を緩めた。彼の占める位置はピラミッドの頂上近く、廃墟と密林を一望に見渡せる場所だった。月の光は密集した樹海の蟠居する厖大な広がりには無力であり、白い石造りの廃墟とのコントラストでそれを暗黒の別世界と思わせていたが、しかし、その中にうごめき、忍び寄ってくる怪獣共の動きがなぜかコナンには分かった。ピラミッドの裾は彼の剛弓が狙いをつけるには手頃な距離だったのだ。矢が羽根の方を彼に向けて足元に山となって積まれ、その上に、コナンは片膝をついていた。来るなら来い!超自然の怪物よ。自分を選り抜いたいけにえとして残しておき、烈しい精神的、肉体的な苦痛を味わわせて最後の一オンスの汗と血まで搾り取ったあとに他の犠牲者の後を追わせる魂胆なのだろうが、なに、負けはしない。コナンのしっかりと結ばれた唇には微笑のかけらすら浮かばなかったが、その瞳は鋼のような哄笑をやどして輝いた。

  ピラミッドに近い木々の下の闇で何かが動いた。中天にかかっている月の中に動物じみた形の、薄暗くぼんやりとした頭と肩の部分が不意に浮かび上がったのをコナンは認めた。しかしそれは一瞬で、地上の闇の中から影そのもののようないきものが次々に実体となって浮かびあがり、音もなくピラミッドの裾をかけあがってくるのだった。まだらの大ハイエナの群れだった。彼等の唾液に濡れた牙が月光の中でひらめき、その眼はこれまで彼が見たいかなる獣の眼の輝きも及ばないほどに赤く燃え狂っていた。コナンは反射的に弓筈を耳の所まで引いた。弦音がひびくや、赤い眼の影がひとつ高く跳ね上がり、落ちて階段をのたうち回りながら転がっていった。他のハイエナ共はひるみもせずに前進してくる。地獄の溶岩のように燃えたぎった憎悪にかりたてられている鋼鉄の筋肉のすべての力と正確さとによって射込まれるキンメリア人の矢が死の雨にも似て彼等の中へ降り注ぐ。

  狂気のような怒りにかりたてられ、コナンは的を外さない。大気は間髪を置かない弦音と飛ぶ矢の裂けるような音で満たされ、突進してくるハイエナの群れの被害は甚大だった。ピラミッドの半ばまで登ったのは彼等の半分もなかった。獣共の燃えるような眼を睨みつけているうちに、コナンは彼等が獣などではないことに気がついた。コナンの感じた違和感は、単に彼等の体の不自然なほどの大きさによるものだけではなかった。再びコナンは黒蓮の幻想の記憶に立ち戻った。彼等が邪悪な魔術の産物であるとしても、その汚れた全身から発散しているぞっとするような死の霊気はなにものであろうか。彼等自身何千年も生きて人間を殺戮し続けた、その結果がこのむかつくような悪気の原因なのだろうか。その彼等に対する嫌悪感が更にコナンの弓を引く力の源になった。だが矢は既に残り少なく、敵はじわりとその距離を縮めてきていた。間近かで躍り上がった白い一頭の肩を射抜き、転がり落ちる姿を一瞥しながら、それに死の霊気の感じられないこと、獣らしさは更に感じられないことにコナンはわずかな疑問を覚えたが、それは次に来た攻撃への対応によって忘れられてしまった。それは最後の矢であった。コナンの喉もと目がけて大きな口を開き宙を飛んだむせるような臭気の毛だらけの一頭の顔面へ、それをまともに射込んでやった。呪われたいきものは痙攣しながらなお宙を駆け、頭から石の上へ激突した。矢が顔から尻まで突き抜けていた。

  次の瞬間、残ったものたちが、その時を待ち兼ねて居たように、燃える眼と濡れた牙の悪夢にも似た一団となってコナンのもとに殺到した。撃ち降ろした剣が最初の一頭をまっ二つにした。その剣を振り戻す時間もなく次の敵のぶつかってくるすさまじい衝撃がコナンを打ち倒した。倒れながらもコナンは正面に見えた獣の狭い頭骨を剣の柄先で叩き割る。その破片と血、そして脳漿が手の上にほとばしったのを感じた。余りに接近しすぎた敵には剣は役にはたたない。そしてコナンは替わるべき短剣を持たなかった。しかしコナンは冷静だった。彼を前足で切り裂き噛みつかんとしている二頭の怪物の喉に素手でつかみかかった。密着した敵の吐き気を催すような刺激臭に殆ど息を詰まらせつつもコナンの右手は一頭の喉をがっきとわし掴みにして喉を掻き裂く。その喉から炸裂した、ぞっとするほどに人間の声に似た悲鳴がコナンを恐怖で萎縮させてしまった。もう一方への狙いがそれで外れ、喉を掴み損なって代わりに前足を掴み、それをねじりちぎった。

  引き裂かれた喉から血を噴き出している一頭は最後の凶暴な発作にかられてコナンに飛びつき、牙を彼の喉へ押しつけた。コナンがその恐るべき力に引き裂かれるような苦痛を感じたその瞬間、敵の生命の灯が途絶えて、獣は死の底へ落ちていった。もう一方の方は三本の足で跳び上がるとコナンの腹に爪を立てた。鎧の鎖が引き裂かれる。瀕死の一頭を傍らへ投げ捨てると、コナンは跛足の怪獣の首を両手で捕らえた。血のにじんだ唇から呻くような気合いの声を絞り出し、全身の力を込めると猛り狂い、歯を剥き出して暴れる悪鬼のような獣を両の腕で掴んだまま、まっすぐに立ち上がった。しかしわずかによろけバランスを崩したところを獣の牙が綻びた肩の鎧の隙間からがっきと食い込んだ。しかしすぐコナンは苦痛をものともせずに顎をこじあけ、そのまま大理石の階段に怪物の全身を叩きつけた。

  コナンは、息を吸おうとしてむせび泣くような声をたてた。大きく開いて踏ん張った足がぐらりとふらつく。彼の視界の中で密林と月が血にまみれてちらついていた。巨大な鳥が羽ばたいているような音が聞こえた。身をかがめ、剣を手探りで見つけると再びよろめきながらも立ち上がった。もつれそうになる足をしっかりと踏みしめ、大剣を両手で握り締めて頭上に振りかざし、目に入ってくる血を振り切りながら敵を求めて上空を見回した。

  空中からの攻撃はなかった。その代わり、コナンの足元の石がぐらりと揺れた。背中の円柱が自分に向かって倒れてくる気配を察知した。周囲で突然ピラミッドの石組みの崩壊が始まったのだ。素早く安全な場所を求めてコナンは飛んだ。着地した場所の石が滑り始めていた。もう一度飛ぶ必要があった。しかしその前にコナンは足を動いた石の隙間に入り込ませてバランスを失い、つんのめるように転がった。その上に更に巨大な円柱が倒れてきた。

  コナンは両足に円柱の破片を乗せたままもがいていた。自分の足が折れているのか、そうでないのか分からなかった。自分の動きを封じている巨大な石と取っ組み合いをしながら片手をついてぐいと半身を起こした。その時、何者かが空の星をよこぎって傍らに降り立った。体をねじって、コナンはそれを見た。翼を持った、怪物だ!

  一旦そのコウモリに似た巨大な翼を背中に収めた怪物は、すぐ正面の身動き出来ないコナンへ向かって襲いかかった。その瞬間に彼が受けた印象は、混乱と当惑のさなかにあってもかなり鮮明なものであった。人間に似た体、湾曲した、矮小な両足、黒い、鋭い爪を持った無格好な、しかし巨大な手、大きく広げられた頑丈な腕、奇妙な形の頭部、裂けた大きな口は肉食の歯が剥き出されていた。中でも特にコナンの目をひいたのは苦心して追い込んだ獲物を間近にした喜びと欲望をあらわにした、血のような色に光った両の眼だった。それは人間でも、獣でもなく、悪魔ですらないように思えた。

  しかしコナンには意識的な、一貫した思考を行っているひまはなかった。落としてしまった剣に向かって体を投げだし、手指を必死に伸ばした。だが届かない。死にもの狂いでコナンは下半身をよじった。だが巨大な石はびくともしなかった。コナンに絶望が兆しても不思議ではなかった。しかし何かの予感が彼をその作業から別の対象へと心を移したのだった。

  再び幻想を見ているのかとコナンは思った。彼の視界の中にその白い姿はあった。その姿、目に馴染んだ素裸のベリが石の残骸の間から立ち上がり、一度コナンにちらりと視線を向け、しなやかな身のこなしでこちらへ走り寄った。そのまま彼に背中を向け、襲いかかる怪物の前にたちはだかったのだった。

  コナンの驚きはそのベリの後ろ姿を見た瞬間の疑問の氷解と、次いで更なる驚きに変わった。彼女の肩甲骨の間の深いくぼみから突き出ているものは、コナンがつい先ほど放ったシェムの矢じりだった。それでは、ベリは怪物によってつかのまハイエナに変身させられていたのだ!コナン自身の矢で傷を負い、そのショックで魔術が解けて元の身に戻ったものか。その彼女がコナンの危機を知り、瀕死の身を鞭打ってこの絶対の危機の前に自身を身代わりに差し出したのだ。

  「ベリ!」

コナンは絶叫した。その意外な場面の展開に驚いてか、それとも彼女の美しさと気迫に押されてか戸惑いを見せ、襲撃を中断して棒立ちになったままの敵を油断なく見据えつつ、ベリは束の間コナンの方へ顔を向けた。笑顔はなかったが、その黒い瞳の中には限りない愛が燃えさかっていた。しかしその月の光よりも青く、土色になった顔と同色の唇はベリが受けている傷の深さをまざまざと示していたし、事実、夜風に吹き流される艶やかな黒髪の陰にほのみえる背中の傷口と、矢じりの先から間断なく滴る赤い血がベリの力を更に削いで行きつつあることは確かだった。そして、ようやく一息いれた恐るべき怪物はすぐに攻撃に転じてくる気配を見せた。コナンはもう一度ベリの名を叫んだ。「逃げろ、ベリ!」しかしベリは今度は振り返らなかった。一度は広げた両の腕を、彼女を苦しめているに違いない、コナンに射込まれた矢の羽根のあたりにさまよわせ、ぱしりと折りちぎった。と見る間にその両の掌を矢軸に重ねて強く押し、自身の背中を貫いて押し出した。最後に彼女の渾身を込めた作業はその血だらけの矢を自身の左手で抜いてしまったのだった。その凄まじい行為を一度鋭い叫び声をあげただけでやりとげてしまったベリは、まさに正面の怪物が襲いかからんと腕を広げたその胸へ、抜いたばかりの矢を逆手に構えつつ、大胆にも自ら飛び込んでいったのだった。

 

  その無謀としか思えない自己犠牲の行為をコナンは茫然と見詰めていた。ただ、彼の耳の中ではベリの情熱的な声が、今叫んだかのようにまざまざと甦っていた。

「たとえあたしが死のなかにいても、あなたが生を闘い続けているかぎり、あたしは深淵から戻ってくる……。」

ベリは怪物の力強い腕をかいくぐってその剛毛の生えた胸へ躯ごとぶつかり、その唯一の武器を突き立てた。しかし、彼女の勢いも、その鋭いシェムの矢じりも怪物のすさまじく盛り上がった筋肉に守られた胸を傷つけることは出来なかった。すぐ怪物の反撃が始まった。ベリは逃れる余裕も与えられず敵の強力な腕に捉えられ、その細腰と首筋を両の手の鋭い爪でがっしりと抱え込まれてしまった。

  そのままびりびりと四肢を引き裂くことも、その顔に近い部分からがつがつと食いちぎることも怪物にとってはたやすいことだったろう。しかし怪物はどういうわけか、もう何の抵抗も出来ず苦しむだけの裸の人間をじっくりいたぶる積もりだったのか、それとも美しいベリの躯と顔をしばらく眺め楽しむ積もりであったのか特に手を加えることもせず、首筋を掴んだ手に力を込めてのけぞらせ、ベリの顔を自身の正面へ据えた。

  むしろ怪物は警戒すべき別の敵の動静に心を配るべきだったろう。怪物が既に戦意を失った瀕死のベリを敵への盾にする気がないのだったら、直ちに傍らへ投げ捨てるべきだったろう。怪物がベリに対して示した関心はコナンの怒りをつのらせただけだったのだ。

  彼女が自分の為に敢然と身を呈し、苦しい闘いを戦っているのを見たコナンは、恐ろしい掛け声とともに不可能に思えた巨大な石を自身の下半身からはねのけるのに成功し、立ち上がった。次の瞬間には大剣がうなりをあげて怪物の肩へ飛んでいた。「翼猿」の右肩を含めた首が巨石の間へ転がった。ベリは首を失った怪物に抱かれたままゆっくりとその場に倒れていった。

 

  コナンは、ベリを救うためになお別の方法があったものかと、後しばらくは苦しんだ。首を失った怪物の、断末魔の痙攣的な力によってベリの瀕死の躯は更に傷つけられ、その深く食い込んだ両手の爪を、それを固着させたまま意識を遠のかせつつある彼女の裸身から解き離すためにコナンはぞっとするような辛い作業を強いられたのだった。そしてその作業は空しい努力に終わった。彼のせめてもの救いは、ベリがコナンへ笑顔を見せて瞳を閉じたことだった。

  怪物の奴隷であり、虐殺の執行者達であった大ハイエナの死体は全てが人間に変わっていた。ただ、何千年も昔に変身させられた戦士達はやがてぼろぼろに崩れて塵になり、夜風に四散していった。ただ何人かのコナンの若い部下達は朝が近づくまでなお死体のままだった。

  コナンは「翼猿」の残忍さと悪知恵に改めて身震いする思いだった。ヌゴラもそうであった。そして彼を深く愛したベリも含めて、コナンが気にいっていた部下の多くを彼自身の手で知らず「死に至らしめる」ことになったのだ。今、コナンが悔恨に狂わなかったのはただ、彼の並み外れた気力のわざとしかいいようがなかった。彼はベリの躯を横抱きにすると船へきびすを返した。剣を奮って船をもやい綱から切り離すと、コナンは大櫂のところへ行って舵を取った。「雌虎丸」は暗い水の上を身震いするように揺れながらゆっくりと流れの中央へ向かって進んでいった。やがて河の速い流れが船を捉えた。コナンはベリを自分の緋の外套に包んで船の最も高い船橋に寝かせた。これまでの多くの闘いで得た、ベリの愛した財宝を周囲に置き重ねた。しかし、最後の冒険での宝石は、呪われた財宝は注意深く遠ざけられ、そしてことごとくザルケーバ河の淀みに投げ込まれた。ベリを惹きつけた未曾有の財宝は再びこの呪いに満ちた自然の深みへ帰っていった。コナンは大櫂によりかかり、暁闇の中にわずかなきらめきを見せて消えていく無数の細片をその冷たさと同質のまなざしで見詰めていた。
                         (六)葬送へ
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