ジャングル・ウーマン(危険美女 4)



先日、ある著名なミス・コンテストで、必須の条件であるビキニで出場した身内の美女の印象をいうのに「(彼女)女ターザンのよう」というのがあった。詳細はもう忘れたけれど、前後の文脈から、それは彼女を褒め讃える言葉だったことは疑いない。なるほど、ヌーディティ(裸体愛好)の犠牲者たる彼女たちを美化して言えば、そのようにも言えるものか。

いや、そういわれれば最近の世の中、夏の海辺に限定されず女ターザンだらけになっていることは確かだし、若く美しい彼女たちの多くが金のためばかりでなく自発的に裸になりたがっていることも事実のようだ。彼女たちは皆意識するしないにかかわらず、女ターザンになりたがっているのかもしれない。少なくとも私にはそう思える。コンクリートジャングルの只中で、自分を渇望する肉食の捕食者たる異性、あるいは羨望と嫉妬の視線で敵対する同性、それら無数の熱い視線の中へ無垢の肌身を晒す勇気が現代のヒロインの条件なのだと思っているのだろうか。多分そうだろう。



冗談はさておき、

以前、私は女性が男と同等か、それ以上の活躍をするフィクションのメジャー化は、ごく最近のことだと書いた(「分析なんか、いらない!」)。

日本というコミック大国での「美少女戦士」の勃興がそれを書かせたのだけれど、どうもこのごろ、そんな認識は間違っていたのではないか、と思うことがある。

直接的には、この思いは山本弘氏という作家のサイトにあった「女ターザン」のリンクを発見したことに始まる。初めてこのサイトを発見した時は、正直いってたまげた。



































女ターザンは、こんなに昔から、しかも沢山いたのか!

もちろん日本ではない。アメリカ、イタリー、フランスといったところ。

なにしろ一番の老舗は1938年からあるのだ。バローズがターザンを創作したのは1912年だから、26年遅れということになるけれど、いずれにせよそのころは日本ではのらくろ(1931〜)が読まれている時代で、若い女性がコミックに現れることなどはなかったはずだ。

 
山本コレクションに見られる外国製の「女ターザン」コミックで現在、日本で見ることの出来る作品は殆どない。唯一、今でも新作発表が続いている「ケイブ・ウーマン」。これを私は早速取り寄せて読んだのだけれど、全体としては上記含む海外の専門サイト群で今も見られる当時の掲載誌の表紙から雰囲気を推測するしかないのである。これは辛いことだけれど、しかたがない。
これらコミックの中には映画化されて有名になったものもある。1938に創作された老舗の女ターザン「シーナ」が代表例だろう。海外のTVなどで何度も映像化されているようだけれど、1984にJ・ギラーミン監督、タニヤ・ロバーツ主演で公開されたものは、今にいたるまでネットにも多くのファンサイトが見られるように、この分野での最高傑作の座を占めたままだ。私も海外コミックの映画化だということなどは知らないまま公開当時、近所の映画館で見て感動した記憶がある。
この映画が成功した理由はやはり無名女優が常識の、汚れ役としての女ターザンに、ボンドガールにも抜擢されたメジャーな美人女優を用いたということが大きいのだろうけれど、それ以上に彼女の真摯な役作り、男顔負けのアクション、けっこうひどい目にもあって、はだしで全力疾走したり、体当たり的に頑張ったところが良かったと思う。こんな真面目な女ターザンは、従来なかったのではないか。
ついでに私が見た「女ターザン」的映画のNO.2は「恐竜時代」だろうか(例のハマー・プロのひとつ)。冒頭絶壁の上からいけにえに捧げられ、荒海へ落ちたところを他の村の舟に救われ、更にその村を追われてひとりジャングルでサバイバルに入るという設定はこたえられなかった。見せ場も多く、主演女優(ヴィクトリア・ペトリも完璧な金髪美女だったが、運動神経が弱そうで、惜しむらくは不細工な靴を履いて逃走するところはいただけなかった。これを映画館で見たときは、洞窟内での全裸からみがあったと記憶しているのだが、ヴィデオからは欠落していた。お子様に見られることを想定しての自主規制だったのだろう。

対象が映画に偏してきた。元に戻す。ここではコミックも含めて大きく、女ターザン的なフィクションを扱おうというのだけれど、まずこのジャンルの魅力は何だろうか。大自然の無法地帯にけなげに生きる美女。おおかたは熱帯だろうし、文化果てる地であるから裸に近い姿になるのは必然だろう。

美女の出自にもよるだろうが、例えば殆ど幼児のころから蛮地にコミットしていれば、リアリズムでいえば多分裸であることに慣れているだろう(ジャングルブックのヒーロー、モウグリは全裸で終始した)し、現地人に育てられたにせよ、殆どは現地民同様粗織りの腰布だけになるのが自然なのだ。成人してから迷い込んだ場合でも、傷んだ衣服の代替を簡単に購入できる環境ではないから、次第に布部分が破れ、欠落して限りなく裸に近い姿になる状況が不自然でなくできる。原始時代の設定なら更に申し分ないだろう。

原始部落美女の参考として現代人がルポしている例(1940頃)を挙げる。ところは南米ベネゼラ、グアジラと呼ばれる海岸地方に漁労で生きるインディオの部落に住む若い(16くらい?)女、むきだしの乳房はまったく見事に発達していて、高く梨形に盛り上がっている。彼女の身に着けているものといえば、細紐でそのしなやかな腰にゆわえつけている前隠しの小さい布以外は、尻もまったくむき出しだった。このルポをものにした幸福な男は、この村一番の美女で海女としても良い働きをする女を、村おさからあてがわれてしばらく一緒に過ごすのだが、私はここを読んで、なぜか日本の前衛小説「砂の女 阿部公房 作」を連想した。

前記のドキュメントは「パピヨン」という映画になったが、このインディオ女がこの通りの姿で登場したかどうかといことを確認していない。多分、胸も尻も覆っていたのだろう。

映画 恐竜時代のターラやシーナは胸をしっかり隠している。ここはリアリズムで遠慮なく乳房を出してほしいものだけれど、女優が嫌がるなど諸般の事情が赦さなかったのだろう。でも、遠慮のいらないコミックなどでも、最新の水着のようなモダンなスタイルなのには落胆する。これはもちろん出版社のコードが関係しているのだろうけれど。



「ケイヴ・ウーマン」に至っては巨乳をあるかなきかの三角ブラジャーで隠し、ボトムはトングの下を切ったような無意味な極小腰布である(パレオ系で、いわゆるビキニではない)。ヌーディティの強調、ではあっても、やはり限度はあるのだろう。

シーナは幼児のころにそういった環境へ入ったのだから、現地人と同様にもっと日に焼けていなければならないし、乳房も顕わであって差し支えないのだ。ケイブウーマンのメリームもリアリズムなら全裸でなくてはならないのだが。


ま、現状あまり過激なことは望めないけれど、ヌーディティというアダルトチックな情況が一応無理なく設定できるというところにこの「女ターザン」の好まれる理由があるのだろうとは思う。
女の裸が見られるということは、それ自体男心を愉しませるし、作品が華やかにもなる。美女の裸体はそれ自身美なのだ。それに、ヒロインが裸になるという設定は、ヒロイン自体の心理情況をノーマルでなくさせる。サディスチックな味付けは最も普通なものだ(女性がまったく無防備になる、そのままで犯すことも可能になるという彼我双方の認識は双方に興奮と緊張、あるいは恐怖をもたらすし、裸体が習慣になった女性では性的な奔放さを相手に期待させることもある。裸体とセックスはダイレクトなイメージでつながっているのだ。

そんな場違いな、サディスチックなイメージを更に増幅させるために、蛮地の自然の中に本来あってはならない文明人、金髪の白人美女を置くのだろう。
肌もあらわなところにもってきて、無法で危険な自然環境は美女を不快で過度なストレスに晒すし、怪我やら病気、死をもたらす可能性は都会の比ではない。そういったハードな舞台設定の中で、更に様々な悪人善人が入り乱れてドラマが繰り広げられる。ヒロインは格別心身ともに強くなくてはドラマがなりたたないのである。

もちろんターザンもののヒロイン(主役ではない)ジェーンは、彼女自身強くはないけれど、ターザンに助けられて密林に棲むリアリティが付与されるのである。おおかたの女ターザンは平凡なか弱い女の域を脱しておらず、皆より強い男性の存在を必要とした。だが、こんな情況ではいかに強いターザンでもたまらないだろう。2人ともあっけなく外敵にやっつけられるだろうことは言をまたない。


シーナはどうだろうか。彼女は村に住む神がかりの女から、自然と動物たちを呪術で自在にする力を伝授され、これを使って強力な敵を退ける。「恐竜時代」のヒロイン、ターラは、たまたま一夜の宿を恐竜の巣ですごしたために、その強力な母に自分の子供と勘違いをされることで、その庇護を得る。




















比較的詳細に中身を見ることが出来た「ケイブ・ウーマン」はどうだろう。この魅力的なロリータ風キャラクターは少女時代に祖父が作ったタイムマシンの事故で恐竜時代に取り残され、そこで美しく、強く成長する。成人すると突然現代と恐竜時代を往復するようになり、様々な善悪双方の現代人たちと接触する。巨大なゴリラと一匹の肉食恐竜を味方にしているけれど、彼女自身の強さ、運動能力はたった一人、短剣一丁で巨大な首長竜と水中で格闘してしとめるほど途方もないものである。もちろんピンチもあるし、自力では危機を脱出できず、友人の巨大ゴリラなどに助力を請うところもあるけれど、全体としてリアリズムは皆無であり、荒唐無稽、以前紹介したアメコミ「ウイッチブレイ

ド」となんら変わるところはないのである。こういった大味なところは、読む機会はないのだけれど、多分、コミックの「シーナ」なども同じなのだろうと思える。


日本がコミック大国になったのは戦後のことで、ひとえに手塚治虫の精緻な長編ストーリー漫画の発明に負うところが大きいのは常識だろう。日本のコミックは、はじめチープなアニメーション(これは日本での造語らしい)として海外に進出し、内容もあるということで世界を席巻し、宮崎駿のジプリはアカデミー賞も取ってしまった(’04年)。アニメの活躍にかなり遅れて、出版物(単行本、雑誌)が海外でもてはやされるようになった。日本のコミックは作家の多さ、多様さにくわえ子供から大人まで夢中で愉しむ事が出来る優れた作品が多いというところが、世界一たるゆえんだろう。

 

しかし、である。海外ではのらくろ以前から多士済々の感のある「女ターザン」のジャンルに属するものが日本にはない。これはなぜだろうか。
日本人の生真面目さは、コミック作品にも上質の芸術的要素を加味させてきた。文学作品として味わうことの可能な、シリアスなものも多いし、平均的に高度な教育を受けた読者が懸命に読みたがる作品も少なくない。
映画は別にして、いわゆるアメリカンコミックの「ケイブ・ウーマン」とか「シーナ」は、おおかたヌード画像を主体として愉しむための、他愛もない筋たてのコミックなので、こういったものを日本人はあまり好まないのではないのか。もちろん作家だってさほど熱を入れて創作する気にはならないのだろう。

ずっと昔、平凡パンチだったか、週間プレイボーイだったか忘れたが、永井豪が短編の女ターザンを書いていた。密林にひとり置き去りにされた美女が裸になって木の枝に跨ると変な気分になってターザンの雄たけびに似たよがり声をあげてしまったという艶笑コミックだけれど、これはこれで「女ターザン」のひとつの本質をついていて面白かった。
松久由宇にも冒頭に突然「女ターザン」が現れる怪作がある(風の戦士 松文館 H3)。

ある意味、山川惣治少年ケニヤに代表される密林、自然で半裸の美少年が活躍する絵物語群は、作品の完成度の高さを別にして、このジャンルに当てはまるかもしれない。もちろん山川の絵物語はコミックではないし、美少年と美女とは似て非なるものである。だいいち、読者の範囲がまったく異なるだろうことは十分想像できる。大山川の芸術的な作品を大衆パルプ通俗コミックと比較するのは、氏に対して失礼というものだろう。

もっとも、そうは言いながら、私はひそかに、やはり、少年王者は「女ターザン」にかなり近い、という印象をぬぐいきれない。私は世界で唯一山川と「女ターザン」の共通の熱心な読者なのだろうか。

リアルで、エロチック、アクション満載のスリリングな女ターザンものがどこかに存在しないものだろうか。一番手軽に目的を達成するには、絵物語、それについでコミックだろうと思うけれど。もちろん理想としては映画化だろう。ハマープロ風でもいい、あまりCGを多用せずに映像化が出来ればいいと思うのだが。

「シーナ」以降
20年、いくつかの作品が作られたけれど、私は幻滅ばかり味わっているのである。

この項 完 ’06.0205 加筆

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