”分析なんかいらない 「戦闘美少女--」雑感

大田出版 「戦闘美少女の精神分析」 ’00.03 初版 を読んで


「戦闘美少女−」雑感

ずっと気掛かりだったことを、誰か、他人がずばっと言ってくれたとき、
我々はカタルシスを感じる。すきっとするというわけだけれど、逆に、
つぼを押さえず、変な場所を叩かれた時、欲求不満は逆に高まることが、
ままある。斎藤環「戦闘美少女の精神分析」がこれにあてはまりそうだ。
確かに気になっていたことだけれど、正直いって
余り話題には出したくない、触れたくない気分でもあった。メジャーでない
ことはもちろん、何かフェティッシュめいて気恥ずかしい、更には犯罪的な
臭いがしないでもない、このオタク的(どうもこの言葉も使いたくない、
マンガ評論における記号論の多用から派生しているようなこの種の
言葉は、まあ便利なんだろうけれど、もっと根源的な、重要なことを
見逃すような気がして好きではない)なテーマは、思いきり厳密な、
学術的な分析(といっても社会心理分析だろうけれど)をしなければ
(そんな必要、あるの?という気もするのだが)、逆に思いきりくだけて
日常的な言葉、舞台で洒落のめしつつ語るしかないような気がする。
前者では資料も半端な量では済まないだろうし、どだい、私のような
非論理的な頭脳では無理な話だ。もちろん、後者のやりかたもその方面の
卓越した才能が必要なので、我々は、何だ、かんだと勝手な批判をいい、
斎藤環にブーイングを飛ばしつつも、当面は彼の勇気にそれなりの評価は
与えた上で、これからも歯がみしつつ新しい才能を待つしかないのだろう。
いずれ私の書けることは精々えせ小林秀雄的な、印象評論の真似ごとに
過ぎないのだけれど。

大体、何が斎藤環に不満足なのかということに少しは
触れておかなければフェアではないだろう。いろいろあるのだけれど、
まず、日本の「戦闘美少女」愛好家に果たして「精神分析」が必要なのか
という点だろう。セックスレスな「美少女愛」がメジャーになっているのなら、
おおいに異常なことだろうし、分析も必要だろうけれど、彼等のヒロインは
大抵がセクシーな美女なのだ。それは当の著書の装丁に描かれてある
奇妙なヌードヒロインを見ても明らかだろう。彼等は大部分がおおいに
正常な精神(性欲)でこのブームを楽しんでいるように思える。
もうひとつは、フェリックガール(半陰陽!?)なるグロテスクな
概念をこんな場に持ち込んで来たことである。可憐な美少女剣士を“疑う
”などもってのほかであるし、それが例えマッチョなスーパーヒロインで
あったとしても、それらをセックスチェックするのはやはり無残な気がする。
世界陸上など、現実のプロ・アスリートの世界だけに留めて欲しいのだ。

私の最も困惑したことは、ヘンリー・ダーガーなる一異常者を
絡ませてきたことだ。フェリックガールという概念はここから出ているようだけれど、
個人的には、出来ればこんなマイナー画家のことは知らずに済ませたかった。
彼が「戦争の中の少女」を描いたことが当今の「戦闘美少女……」の類例には
ならぬというわけではないけれど、まず無関係か、殆ど極北のひとだろうという
気がする。われわれが話題にしたいのは、もっとメジャーな、楽しく、万人に
分かり易い事柄についてなのだ。ダーガーの絵が、あるいは魅力的なものだろう
ことは想像がつくし、もちろん様々な素材を持ち込んで好みの料理に仕上げるのは
論者の勝手ではあるが、現今の「戦闘美少女」にこだわる限り、まだ
「奴隷戦士マヤ」のこのどんとを挙げる方がましなのではないか。

芸術作品は大前提として人類全体が(男女問わず)享受出来る
(理解可能な)ものだろうけれど、セクシュアルな表現というものは
(それが肉体的な生理面に直接訴えるから下等だという価値問題を別にして)
元来、最大でも人類の半分(の大人)しか相手に出来ない限界を持つことで
マイナーになるということだろう。男性は男性のため(だけ)にせっせと
セクシュアルな表現で市場をあさる。女性は女性のためにハーレークィン的
世界で男性の性的表現とムードの世界をかきなぐる。おおいによろしい。
一体、セックスに触れない純文学で、人類全体を愛読者にしているものは
非常に少ない(聖書だって相当の部分これにこだわっている)し、むしろ
セックスを売り物にする大衆文学の方が瞬間的には絶対数で多数の
読者を獲得しているのが現実なのだ。
では戦闘美少女の市場は何だろうか。これは元来男性の
中の少女嗜好的少数者(たいした数ではない)のための需要から生まれた
ものなのだろうけれど、とても、そんな説明では済まない膨大な供給
(と消費)が日本ではなされている。ちょっと変だ、調べてみようか、
という観点から成ったのがこの大層なハードカバーなのだろう。調べて見れば、
美少女といっても、その大部分は立派な乳房を誇示した紛れもない成人の
女だったりする。やはり目先を変えたセクシュアルな娯楽作品の一系列として
いいのでは、という気がする。
また、例外に属する中性的な美少女ヒロイン、宮崎駿の
一連の作品などに現れる女主人公は、例えば、過去の少年少女読み物、
山川惣治の少年ケニヤなどで代表される、時代における少年(男)の
主人公偏重に対する反動として説明出来ないだろうか。意識的にせよ、
無意識的にせよ、それらは時代のうねりの中で起こる反復現象のひとつ
なのだろうという解釈は可能だろう。もちろんフェミニズムの台頭も無関係
ではない。女性だって同性がかっこよくヒロインにまつりあげられるのを見るのは
(それが露出過剰のヒロインであれ、男に悦ばれればいいわけだろうし、
余りに露骨にセクシュアルでなければ)悪い気はしないだろうし、積極的な
ファンにもなるに違いない。日本は世界一のアニメを含むマンガの生産地であり、
性のタブーも殆どない。それ故にこの傾向が大きいとしても不思議ではない。
ご当地得意の、アニメのバーチャル機能をたっぷり活用した、主として
男社会へのサービスの多様化の一環なのだろう。もちろん可愛いセクシーな
ヒロインは時流にも乗って若い女性にももてるのだろう。それが今異常に多いのも、
いわゆる「はやり」現象として供給過剰になっている面があるだろうし、いずれ
落ち着けば、ひとつの確固たるジャンルとして定着することは確かだ。

男女の権利の考え方の均質化は世界的な傾向であり、
女を男と同質のヒロインとして活躍させる文芸の傾向は、先進社会では
ずっと以前から始まっていた、と私は思っている。コナンシリーズ
(米国発 原作1935頃〜)にはターザン物(‘10代)には
なかったマッチョなヒロインが最初から描かれているし、’60年代(の中程)に
世界的な大ベストセラーになった「アンジェリク」(仏発)は当時のルイ14th太陽王をも
とろかしたセクシーな美女で、大層な勇気の持ち主、馬賊を率いて臨月の身体で
町まちを荒らし回る(体制へのレジスタンス、ゲリラ)、銃の名手でもあった。
もっとも、彼女は全く自立した存在ではなく、そんな冒険へ彼女を駆り立てた、
スーパーな影の存在としての夫がいた。でもコナンものほどに彼女はその
ヒーローに依存するわけでなく、あくまで亭主は脇の存在として終始する。
そんなところに時代の推移というか、思想の発展の足取りのようなものが
感じられて私には興味深い。
洋泉社ムックの映画秘宝シリーズに「女ターザン」の
系譜がまとめてあって、なかなか楽しく読めたのだけれど、これらもやはり
時代の産物なのだから、余程の先見性ある企画者でなければ、
男性上位、女は従属物という殻を破れなかったということだろう。
ヒロインたちが裸を見せることはあっても(当面それが最大の目的
だったのだろうし)、男をやっつけたり、ターザンそのものに成り代わって
活躍することは、凡庸なプロデュウサーたちには考えられなかったのだろう。
大方が歯がゆいばかりの弱虫ヒロインだったというのもうなずけるのである。
その中でも、やはり抜けた作品には一級の監督がついている
(「シーナ=タニヤ・ロバーツ」のJ・ギラーミン、そういえば、女ターザンでは
ないけれど、この戦闘美女のはしりで、なかなか評判もいい「バーバレラ=
ジェーン・フォンダ」の監督は、ヒロインの夫君、R・バディムであった。)
そして現在、一枚看板のスーパーヒロインは男を文字通り
足蹴にして枚挙にいとまがないのだけれど、世のメジャーである男性達が
そんなヒロインの登場を嫌悪しなくなった以上、これからも戦闘美女は
本来の適正規模まで増え続けるのだろう。しかしそんな強い(強過ぎる)
美女は、やはり本質的に不自然なのであり、作品としてそれを克服する
(リアリティを持たせる)ためには、作者側のすくなからぬ技量が要求される。
女としては突出した強さであれ、やはり強い男には勝てなくて当然なのだし、
それはそれでいいのではないか(少なくも、私の趣味としては、それでいい。)。
捕らえられ、拷問され、犯されるのは彼女たちの宿命なのだし、むしろ
自然なことだといえる。彼女たちに取っても悪いこと、恥ずべきことではないのだ。
犯され、汚されることでかえって彼女たち本来の美しさは際立ち、輝きを増す。
その傷はむしろ勲章として珍重されるはずだ。ライオンと戦って傷を負ったマサイ族の
戦士が勇者として称えられるように。
単なる強過ぎるスーパーヒロインではなく、かようにリアルなヒロインを
登場させる一方、作者、作り手の立場としては、読者がそれらへ、より容易に
感情移入できるよう、一般読者にも受け入れられるべく、心地好く楽しめるような
描写力を強化し、研ぎ澄ましていくことが求められるだろう。芸術として、
メジャーな娯楽としてかように洗練させていくことで、いわゆるSMの分野でも
地下にある作品たちを浮き上がらせ、一般に認知させていくことは可能だ。
それまでには、日本のいわゆる戦闘美少女でも、余りに荒唐無稽なものは
淘汰され、息絶えているにちがいないのだが。


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